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第十八章 空が割れる夜

地下区画へ駆けつけたとき、王城はすでに半ば混乱の中にあった。

 通路の壁に刻まれた導紋が明滅し、床を走る細い溝に青白い光が流れている。使用人たちは避難し、騎士たちは動揺を抑えながら警備線を張っていた。遠くでガラスの割れる音と、人々のざわめきが重なる。

「ひまりは下がれ」

「いやです」

「命令だ」

「聞こえないからって何もできないって決めつけないでください」

 珍しく、ひまりは真正面から言い返した。

 レオンは一瞬だけ言葉を失い、それから短く息をつく。

「……私のそばから離れるな」

「はい」

 それなら受ける。

 地下祭壇の広間へ近づくにつれ、空気はますます重くなった。水路の跡をなぞる光は太くなり、床下で何か巨大なものが唸っているような感覚がある。精霊の姿は見える。だが、声はまだほとんど届かない。彼らは逃げ惑うように広間の天井近くを飛び、時折ひまりを振り返っては口を開いていた。

 届かない。悔しい。

 扉が開かれると同時に、熱風のような圧が押し寄せた。

 祭壇の中央にはヴァルドが立っていた。背後には宮廷技師たち、床一面には新たに描き足された複雑な陣。古い祭壇へ現代式の制御を無理に継ぎ足したのだと、ひまりにも分かる。

「止めてください!」

 叫ぶと、ヴァルドは振り返り、実に穏やかな顔で笑った。

「止める? ここまで来て?」

「王都の外が枯れ始めてるんです」

「一時的な負荷です。王都が安定すれば再配分できる」

「そんなやり方じゃ」

「理想だけで国は守れません、巫女殿」

 その言葉に、ひまりの胸の奥が冷えた。

 ヴァルドは本気なのだ。悪意よりも、確信が強すぎる。だから危ない。

 レオンが前へ出る。

「祭壇運用を停止しろ。これは王家の命令だ」

「王家もまた、結果を求められる立場でしょう」

 ヴァルドが手を上げると、技師たちが陣へ力を流し込んだ。次の瞬間、祭壇の中央から光が噴き上がる。

 轟音。

 床が震え、天井から砂が落ちた。王都全体の灯りが一瞬で強くなり、ひまりの視界の端で、精霊たちの輪郭が薄く引き延ばされる。

『いや』

『ちぎれる』

『ひまり』

 今度は、少しだけ聞こえた。

「殿下!」

 ひまりは反射的にレオンの腕を掴み、陣の外へ引いた。直後、祭壇の外周で光が弾け、床石が砕ける。騎士たちが技師を庇い、セレナが防御術式を展開した。

「全員、後退!」

 レオンの声が響く。

 しかし祭壇は止まらない。むしろ暴走した流れは王都の地下導路へ逆流し、遠くで鐘がいくつも鳴り始めた。

 ひまりは中央の台座を見た。

 あそこだ。あそこへ届かなければ、止まらない。

「私、行きます」

「だめだ」

「でも!」

「今の状態で触れれば、おまえが持っていかれる」

「それでも、誰かが」

「私が行く」

 そう言ったのはレオンだった。

 ひまりは息をのむ。彼には祭壇を扱う力がない。それでも行こうとしている。

「殿下はだめです!」

「ならどうする」

 その問いに答えはなかった。焦りと熱が喉を焼く。

 その時、ひまりの胸元で、ミレイユから預かった鍵がじんと熱を持った。

 祭壇奥の記録庫。

 そこに何かある。

「奥の部屋、開けます!」

 ひまりは叫び、台座横の壁へ走った。鍵穴など見当たらない石壁へ鍵を押し当てると、するりと吸い込まれるように鍵が入り、隠し扉が開く。

「ひまり!」

 背後からレオンの声。だが振り返れない。

 扉の向こうは狭い通路だった。その先には、丸い部屋。棚一面に金属板と古い石板、そして中央に小さな水盆が置かれている。

 水盆の表面へ手をかざした瞬間、ひまりの意識は強く引かれた。

 鈴の音。

 風の音。

 数え切れない声が、今度ははっきりと重なって届く。

『やっと』

『ここだ』

『聞いて、ひらいて、返して』

 世界が反転した。

幕間 空の裂け目を縫う手

 空が割れた夜、王城の中でも人々はただ怯えていたわけではなかった。

 侍女たちは子どもを抱えて安全な部屋へ導き、庭師は倒れた鉢を避け、水路番は溢れかけた流れを板で押さえ、研究棟の弟子たちはセレナの指示で結界用の水晶を走って運ぶ。

 ひまりが広間を抜けるとき、若い侍女が震える手で布を握りしめているのが見えた。

「大丈夫?」

「こ、怖いです」

「うん、私も」

 正直に答えると、侍女は少しだけ目を丸くした。

「でも、怖いままでも動けるから」

 ひまりがそう言うと、彼女は小さく頷いて布を抱え直した。

 街を救うのは、巫女一人ではない。

 その当たり前のことが、極限の夜ほどはっきり見える。

 祭壇へ向かう途中、ひまりは鍛冶屋の青年が橋用に作った細い金具を抱えて走っているのとすれ違った。神殿の歌い手たちは喉を震わせながら音を合わせ、老庭師グレイスは自分の体より大きな鉢を二人がかりで守っていた。

 裂け目を閉じるのは祭壇かもしれない。けれど、夜が完全に崩れないように縫い止めているのは、こういう無数の手なのだ。

 その光景が、ひまりの足を前へ押した。


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