プロローグ 朝の鈴は世界を呼ぶ
© 2026 Mshumarochan
無断転載・無断改変・AI学習利用を禁止します。
朝の神社には、まだ夜の名残がうっすら残っている。
石段の冷たさ、手水鉢の水の匂い、杉の梢が擦れ合うかすかな音。その全部が少しずつほどけていって、境内そのものが目を覚ます――天音ひまりは、その瞬間が好きだった。
箒を持って石段を掃きながら、ひまりは鼻歌まじりに空を見上げる。山あいの小さな町にある天音神社は、観光地でもなければ有名な社でもない。けれど春には梅が香り、夏には蝉が騒ぎ、秋には金木犀の匂いが石畳へ落ちて、冬には霜の白さが鳥居を際立たせる。昔からそこにある、ただそれだけの場所だった。
それでも、ひまりにとっては大切な世界だ。
朝いちばんに社務所の障子を開けると空気がふわりと動くことも、祭具棚の向きが少しずれただけで場の落ち着きが変わることも、手水舎の柄杓をきちんと並べ直すと水音まで整うことも知っている。
「ひまりー、幣殿の棚、今日は榊も見ておいて」
境内の向こうから母の声が飛んできた。
「はーい!」
返事をしながら、ひまりは掃き寄せた落ち葉をちりとりへ集める。父にはよく「おまえは掃除をしているときがいちばん機嫌がいい」と笑われるが、実際その通りだと思う。乱れたものが整い、ばらばらだった気配が一つに馴染んでいく瞬間は、見ていて気持ちがいい。
その朝も、本殿前、石段、社務所前といつもの順番で掃除を終え、最後に奥社の方へ向かった。
参拝客が滅多に入らない細い道だ。杉に囲まれた一角には、古い鳥居と小さな石祠がひっそり残っている。苔むした石畳に落ちた葉を払おうとして、ひまりは鳥居へ手をかけ――そこで、ぴたりと動きを止めた。
鈴の音がした。
神楽鈴の澄んだ響きによく似ている。けれど、それだけではない。
ひとつの音なのに、水の流れや木漏れ日の揺れや朝の風の匂いまで一緒に鳴ったみたいな、不思議な音だった。
「……誰?」
思わず問いかけると、もう一度、鈴が鳴る。
今度はもっと近い。耳ではなく、胸の奥のやわらかいところに触れるような響きだった。
ひまりは無意識に奥へ足を進めていた。鳥居をくぐり、石祠の前まで来たとき、足もとへ小さな光が落ちる。朝露が光ったのかと思ったが、それは露ではなく、ふわりと浮き上がってひまりの指先へまとわりついた。
『きた』
『ようやく』
『聞こえる子だ』
『整える手だ』
声がした。
はっきりと。
誰もいないのに、たしかに聞こえる。
ひまりが息を呑んだ瞬間、石祠の奥の暗がりが水面みたいにゆらいだ。
「え、待っ――」
逃げるより先に、世界が裏返る。
足もとから身体がすくい上げられるような感覚。朝の冷たさが一気に遠ざかり、代わりに濃い緑の匂いが押し寄せた。
次に気づいたとき、ひまりは見知らぬ森の中に立っていた。
高い木々。やわらかな苔。見たことのない白い花。空気そのものは山の森に似ているのに、枝ぶりも光の角度も、日本のどこにもない。
「……え」
間の抜けた声しか出ない。
木漏れ日が弾けるように揺れた。光の粒が一つ、二つと増え、やがて狐のしっぽみたいな白い影、水滴みたいな青いもの、羽根のある火の鳥みたいなものへ姿を変える。
『見える!』
『聞こえる!』
『触れる? 触れる?』
『巫女だ!』
「ええええええ!?」
悲鳴と同時に鳥が飛び立つ。光の子たちは構わずひまりのまわりをくるくる飛び回り、頬をつつき、髪を引っ張り、袖へ潜り込む。混乱しているうちに足もとで小さな獣がつまずき、ひまりは反射的にしゃがみ込んだ。
「あ、ごめん、大丈夫?」
抱き起こしてやると、薄茶の獣は震えながらひまりの掌へ鼻先を寄せた。
その瞬間、乾いていた草がふっと青さを取り戻す。
ざわ、と森が息をした。
葉が一斉に鳴り、水の音が遠くで高くなる。何かが確かに変わったのだと分かるほど、周囲の気配が生き物のように動いた。
『帰ってきた』
『世界の声が戻る』
『呼べ、呼べ、人を呼べ』
「いや、帰ってきたって何。ここどこ。ていうか、みんな誰!?」
当然の疑問に誰もまともに答えないまま、藪の向こうから馬のいななきと甲冑の触れ合う音が響いた。
凜とした男の声が落ちる。
「そこにいるのは何者だ」
振り向いた先にいたのは、深い青の外套をまとった青年だった。銀を帯びた黒髪、整いすぎるほど整った顔立ち、そしてひどく静かな灰青色の瞳。その後ろに騎士たちが控えている。
ひまりは反射的に頭を下げた。
「えっと、すみません! 怪しい者では――」
『怪しい』
『十分怪しい』
『森に祝福されてる』
『でもかわいい』
「最後のいらない!」
精霊たちの好き勝手な野次に頭を抱えたくなる。青年は足もとの青い草と、ひまりのまわりを揺らす光の粒を見て、わずかに目を細めた。
「……森が、歓迎している?」
信じ難いものを見るような顔だった。
ひまりももっと信じ難い。説明してほしいのはこっちである。
「私にも何がなんだか――」
言いかけたところで、ふっと視界が揺れた。異世界らしき森へ放り込まれ、精霊らしき何かに囲まれ、さらに麗しいけれど怖そうな青年に尋問されれば、混乱も限界だ。
青年が眉をひそめる。
「おい」
「だ、大丈夫です。たぶん……」
言い切る前に膝が抜けかけ、ひまりは思わず目を閉じた。
次に感じたのは、甲冑の硬さではなく、意外なほどしっかりとした腕だった。
「倒れるなら先に言え」
「そんな余裕ありませんでした……」
かろうじて返すと、騎士たちがざわついた。青年は小さくため息をつき、ひまりを支えたまま部下へ命じる。
「王都へ戻る。この娘は保護する」
『保護!』
『保護という名の連行!』
『でも王子だ』
『王子さまだー』
また意味の大きい単語が飛んできた。
ひまりが呆然と青年を見上げると、彼はごく簡潔に名乗る。
「レオン・ルミエル。ルミエルディア王国第二王子だ」
山の神社育ちの女子高生だったはずの自分が、見知らぬ森で異世界の王子に捕獲される。
そんな朝が、世の中にあるだろうか。
幕間 王都までの道
森を出て王都へ向かうあいだ、ひまりは目に入るもの全部へ心の中でつっこみを入れていた。
まず、道が広い。馬が大きい。騎士の鎧が本当に金属でできている。そして何より、周囲をくるくる飛び回る精霊たちがまったく静かにならない。
『王子だ』
『きれい』
『でもこわい』
『ひまり、つかまった?』
「捕まってません。たぶん」
小声で返すと、馬上のレオンがちらりとこちらを見る。
「まだ具合が悪いのか」
「いえ、独り言です」
「独り言が多いな」
「今日は特別です」
特別も特別、人生最大級である。むしろこれで平静にしていられる人がいたら会ってみたい。
ひまりは騎乗できないので、途中までは騎士の予備馬へ横乗りのように乗せてもらい、それから馬車へ移された。馬車の乗り心地は思ったより悪くない。クッションが分厚く、窓の外には見たこともない草花が流れていく。
けれど、のんびり景色を眺めるには頭が忙しすぎた。
「……異世界」
口に出してみると、ますます現実味がない。
『いせかい?』
『こっちはこっち』
『あっちはあっち』
白い狐の精霊が、得意げにひまりの膝へ飛び乗った。
『わたしココ』
「ココ?」
『おまえ、ひまり』
「私の名前は知ってるんだ」
『聞こえると分かる』
それは説明になっているようで、なっていない。
他の精霊たちも競うように自己紹介を始める。水滴みたいなのがトト、火の小鳥がピィ、風の細い影がリリ、土の丸い塊がモフ。覚えやすいような、勢いで決まったような名前ばかりだ。
「みんな、ずっとこの森に?」
『森にも街にもいる』
『でも今は少ない』
『聞こえないから』
ひまりは首を傾げる。
「聞こえない?」
そこで会話が途切れた。精霊たちは人の子どもみたいに、言っていいことといけないことの境目が曖昧だ。答えに困ると、すぐ他のものへ気を取られる。
その代わりに、馬車の向かいに座ったレオンが低く言った。
「王都へ着いたら、詳しい事情を聞く」
「私も聞きたいことが山ほどあります」
「だろうな」
「元の世界へ戻れるのかとか、ここがどこなのかとか、王子さまが本物なのかとか」
「私は最初から本物だ」
「そこだけ即答なんですね」
ひまりが思わず笑うと、レオンはわずかに視線を逸らした。照れたようにも見えたが、たぶん気のせいだ。
森を抜け、街道へ出るころには、ひまりの緊張はほんの少しだけほどけていた。
もちろん不安がなくなったわけではない。けれど、膝の上で丸くなるココの温かさと、窓の外を確かめるように進む騎士たちの気配と、何より真正面に座る王子の静かな横顔が、不思議と「完全な悪いことにはならない」と思わせてくれた。
その感覚が当たっているのかどうかは、まだ分からない。
ただ少なくとも、王都の白い城壁が遠くに見えたとき、ひまりはひとりぼっちではなかった。




