第十七章 告白未遂の、その前に
西の中庭が小さく息を吹き返してから、ひまりは毎日そこで手を動かした。
苗は少しずつ根づき、石の間には苔が広がり、水鉢には鳥が水を飲みに来るようになる。使用人たちは最初こそ遠巻きだったが、今では昼休みにパンを持って座り、子どもたちまで「ここ涼しい」と言って寝転ぶようになった。
不思議と、城の空気まで少し和らいだ。
「西棟の使用人たちの喧嘩が減ったそうです」
セレナが本気なのか冗談なのか分からない顔で報告する。
「庭にそんな効能が」
「余白が戻ったのかもしれませんわね」
その言葉に、ひまりは笑った。
余白。ミレイユの言葉、セレナの言葉、自分の感覚が、少しずつひとつの形になりつつあった。
その夜、レオンが珍しくひまりを夕食へ誘った。
「西の中庭の礼だ」
「え、庭の礼って食事になるんですか」
「ならないと思うなら断れ」
「断りません」
即答した自分に、ひまりは少しだけ照れる。
案内されたのは、王城の高い塔にある小さな食堂だった。大広間のような華美さはなく、丸い窓から王都の灯りが見える。テーブルには温かな料理が並び、給仕も最小限。二人きりに近い空気に、ひまりの心臓は最初から落ち着かなかった。
「王子とご飯って、慣れませんね」
「私も、おまえとこういう場で向かい合うのは初めてだ」
「殿下でも緊張することあるんだ」
「ある」
即答されるとは思わなかった。
思わず顔を上げると、レオンは真面目な顔のままだ。
「おまえ相手だと予定が崩れる」
「それ、褒めてます?」
「……半分は」
いつもの返しに、二人同時に少し笑う。
食事をしながら、ひまりは日本の神社の話をした。秋祭りの屋台、祖母の厳しい神楽指導、父がしめ縄を張るときだけ妙に職人顔になること。レオンは黙って聞いていたが、ときどき意外なほど細かい質問をする。
「祭りのとき、子どもは何をする」
「走り回ります」
「それはどこでも同じか」
「たぶん世界共通です」
そんな何気ない会話が楽しいなんて、少し前の自分なら思わなかった。
一方で、レオンは自分のことをあまり話さない。ひまりが促すと、彼は少し考えてから言った。
「子どもの頃は、王都の古い地図を見るのが好きだった」
「地図?」
「街がどう変わったか分かるからだ。消えた庭、埋められた水路、広げられた道」
「昔から気にしてたんですね」
「変わること自体が悪いわけではない。だが、失くしたものが何か知りたかった」
その言葉に、ひまりは胸が温かくなる。
レオンは最初からずっと、この国の“なくしたもの”を見ていたのだ。
食後、ひまりは窓辺へ立った。王都の灯りはまだ不自然に明るい。けれど、その下で点々と眠る場所もある。西の中庭のように、また呼吸を取り戻せるかもしれない場所が。
「殿下」
「何だ」
「私、まだ怖いです。でも、聞こえなくてもやれることがあるって分かりました」
「ああ」
「だから、最後まで一緒にやります」
振り向くと、レオンがこちらを見ていた。
その目の色に、何かを言おうとしている気配がある。
「ひまり」
「はい」
「私は――」
その瞬間、外で鐘が鳴った。警鐘だ。
続いて扉を激しく叩く音がして、護衛が飛び込んでくる。
「殿下、地下区画で暴走です! 祭壇封印が破られました!」
レオンの表情が一変する。
ひまりは息をのんだ。今、確かに何か大事な言葉の直前だったのに。
けれど、それを惜しむ間もなく二人は立ち上がっていた。
王都の夜が、今度こそ本当に悲鳴を上げ始めていた。
幕間 名前を呼ぶ練習
ある夕方、ひまりはセレナに真顔で言われた。
「いい加減、殿下のことを“レオン”と呼ぶ練習をなさい」
「なんでですか」
「距離感の話です」
理屈が分かるような分からないようなまま、ひまりは共鳴庭園の隅で小さく呟いてみた。
「れ、レオン」
その瞬間、背後から当人の声がした。
「何だ」
「ひゃっ!?」
驚いて振り返ると、レオンが本当にいた。いつからそこにいたのか、ひまりは全く気づかなかった。
「聞こえてたんですか」
「呼んだのだろう」
「練習です!」
「何の」
「名前の」
そこまで言ってから、ひまりは両手で顔を覆った。説明するほど恥ずかしい。
だがレオンは少し黙ったあと、予想外にやさしい声で言う。
「なら、もう一度」
「……無理です」
「練習にならない」
結局その日、ひまりは顔を真っ赤にしたまま三回だけ「レオン」と呼ばされ、レオンはそのたびに律儀に返事をした。後から聞いた精霊たちは面白がって大騒ぎしたが、ひまりにしてみれば立派な試練だった。




