第十五章 声を失う
祭壇の停止を巡る対立は膠着したまま、王都の負荷だけが増していった。
そしてある朝、ひまりは目を覚ました瞬間に異変に気づく。
静かすぎた。
いつもなら枕元で騒いでいるはずの精霊たちの声が、まるで遠い。ココの姿は見える。トトもいる。けれど声が届かない。水の音に厚い布がかかったみたいに、全部がぼやけていた。
「……聞こえない」
口にした途端、心臓が冷える。
慌てて庭へ出ても、木々の響きは戻らない。中庭の大樹に触れても、あの日のような気配の返事がない。
セレナが顔色を変えた。
「共鳴路が断たれていますわ」
「祭壇の過負荷で、おまえ自身が弾かれたのかもしれん」
レオンの説明に、ひまりは唇を噛んだ。
「そんな……じゃあ、私、もう何もできない?」
セレナはすぐに否定しなかった。それがかえって怖い。
ひまりは部屋へ戻り、机に突っ伏した。木片を手に取っても、いつもの“中にある形”が見えない。空っぽのままだ。
しばらくして、そっと扉が開く。
レオンだった。
「食事を持ってきた」
「いりません」
「そう言うと思った」
彼は勝手に机へ盆を置き、窓を少し開けた。春の風が入る。優しすぎて、今はつらい。
「私、役に立たなくなりました」
「それは違う」
「違わないです。声が聞こえないんです。私の取り柄、なくなりました」
顔を上げたくなかった。泣きそうだからだ。
けれどレオンは、いつもより静かな声で言った。
「おまえが王都でやってきたことは、精霊に声をかけたことだけではない」
「でも」
「祭りの流れを変え、村の水路を直し、人を笑わせた。おまえは場を整え、人をつないだ」
ひまりは目を閉じる。
そうだろうか。もしそうだとしても、肝心なときに声が聞こえなければ意味がない。
「怖いんです」
やっとのことで、本音が零れた。
「みんなが期待して、私も何とかしたくて……なのに急に空っぽになったら、ここにいる理由までなくなる気がして」
沈黙のあと、レオンの手がそっと机に置かれた。触れるわけではない。ただ、逃げ場を塞がない距離で。
「理由ならある」
「殿下の都合ですか」
「私の都合でもある」
思わず顔を上げると、青い瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。
「おまえがいて、城も街も少し変わった。私も」
それだけ言って、彼は椅子から立ち上がる。
「戻る。食事は置いておく」
扉が閉まったあと、ひまりはしばらく動けなかった。
胸の中に残った言葉が、苦しいのに、少しだけ温かい。
精霊の声は聞こえなくなっても、自分に届く声がひとつだけ、やけにはっきりしていた。
幕間 声のない祈り
精霊の声が聞こえないまま準備の日々が過ぎる中で、ひまりは夜ごと温室へ通うようになった。
花に水をやり、鉢の向きを変え、長椅子のクッションを叩き、床へ落ちた葉を拾う。大した作業ではない。けれど手を動かしていると、世界から完全に切り離されてはいないと思えた。
ある夜、老侍女が小さな祈祷台を持ってきた。
「先代王妃さまがお使いだったものです」
木目のやわらかい、小さな台だ。祈るためというより、手紙を書いたり花を置いたりするための高さをしている。
ひまりはその上へ、最近削った葉飾りをひとつ置いた。見えない精霊へというより、自分自身へ返すためのしるしだった。
「聞こえなくても、ちゃんといますように」
声に出してみる。
返事はない。
それでも、花の匂いが少しだけ濃くなった気がした。
温室を出ると、廊下の先にレオンがいた。壁へもたれ、こちらを見るでもなく立っている。
「見張りですか」
「散歩だ」
「王子の散歩にしては静かですね」
「おまえもだろう」
二人で並んで歩く。今夜は言葉が少ない。少ないけれど、その沈黙が重くないことにひまりは気づいていた。
「殿下」
「何だ」
「聞こえなくても、祈っていいと思いますか」
唐突な問いだったが、レオンは間を置いてから答える。
「聞こえるから祈るのではない。祈るから、いつか届く」
ひまりは足を止めた。
それは彼らしい、簡潔で不器用な励ましだった。けれど、今の自分には十分すぎる。
「……ありがとうございます」
返すと、レオンは少しだけ眉を寄せる。
「最近、おまえは礼を言いすぎる」
「言いたいので」
「なら仕方ない」
仕方ないと言いながら、その声はどこかやわらかかった。声のない夜にも、届くものはあるのだとひまりは知る。
幕間 声のない朝
ひまりが精霊の声を失った翌朝、王城は不自然なほど静かだった。
いや、本当は静かではない。侍女の足音も、遠くの鐘も、庭師たちの話し声もある。ただ、その全部の向こうにいつも重なっていたはずのものが消えている。木々のさざめきに潜んでいた小さな返事も、水鉢の縁で笑っていた気配も、何も聞こえない。
ひまりは西の中庭の腰掛けに座り、指先をぎゅっと握った。
「……いない」
見えない。聞こえない。
これまでは、うるさいくらいそばにいたのに。
しばらくして、セレナが湯気の立つ茶を持ってきた。
「飲みなさい」
「ありがとう」
ひまりが受け取ると、セレナは隣に立ったまま庭を見る。
「全部消えたわけではありませんわ」
「でも、分からない」
「分からないだけです」
きっぱりとした言い方だった。
それでも心は簡単に追いつかない。ひまりはうつむく。
「私、声が聞こえなくなったら、もう何もできないのかもって……」
「そんなはずありません」
今度はレオンの声だった。
いつの間に来たのか、彼は中庭の入口に立っている。朝の光を背負った姿はいつもより少しだけ厳しく見えた。
「おまえがここへ来てから変わったものを数えろ」
「え?」
「庭、橋、温室、市場、リュン村。全部、おまえが“聞こえた”からだけで変わったわけではない」
レオンはひまりの正面まで歩み寄る。
「おまえは人を動かした。形を見た。場所を整えた。それは今も消えていない」
ひまりは茶器を持つ指先へ力を込めた。
たしかに、そうだ。
村の溝を掘ったのは村人たちで、市場へ人を呼び戻したのも果物屋や橋守たちで、中庭へ腰掛けを戻したのは老庭師だ。自分はただ、ほんの少しだけ流れを示しただけかもしれない。
「……うん」
小さく答えると、レオンの表情が少しだけゆるんだ。
「今日は休め」
「でも」
「命令だ」
「ずるい」
「知っている」
そこでようやく、ひまりは少しだけ笑うことができた。声がなくても、失ったものばかりではないのだと、静かな朝の中で少しずつ思い出し始める。
幕間 失われた声でできること
精霊の声が聞こえなくなってから数日、ひまりは意識して城の中を歩くようにしていた。
足を止める場所。人が話しやすそうな角度。窓を開けた時に風が抜ける向き。以前なら精霊に教えられるように分かったことを、今度は自分の身体で確かめる。
西の中庭で侍女たちが自然に笑い合っているのを見て、ひまりは小さく息をついた。
「ちゃんと残ってる」
見えなくても、変わったものはそこにある。
その日、研究棟へ差し入れを持って行くと、机の上の書類が風もないのにぱらりとめくれた。ひまりは思わず顔を上げる。何も見えない。けれど、ほんの一瞬だけ懐かしい悪戯の気配がした。
「……リリ?」
返事はない。
それでも、ゼロではないのだと分かる。
その夜、ひまりは久しぶりに木片を手に取った。小さな葉の形を削る。音を立てず、削りすぎず、隠れている線を起こすように。
完成した葉飾りを窓辺へ置いたとき、風がほんの少しだけ向きを変えた。
声がなくても、返事がなくても、つながりは途切れていない。
それは失ったものを取り戻す前に、ひまりが自分の手で確かめなければならないことだった。
幕間 無言の昼食
声を失ったあとの数日、ひまりは人と話すのも少し怖かった。
うまく笑えているか分からないし、周囲に気を遣わせていることも分かる。そんな昼、レオンが無言で昼食の盆を持って現れた。
「食べろ」
「……殿下が運んできたんですか」
「途中までは侍女だ」
半分しか答えていない。
けれど彼はそのまま対面へ座り、自分も同じものを食べ始めた。特別な励ましはない。慰めの言葉もない。ただ静かに、同じ時間に同じ食事をする。
それが妙にありがたかった。
「おいしいです」
「なら良かった」
「殿下、こういうとき上手ですね」
「何が」
「何も言いすぎないところ」
レオンは少しだけ考えてから、水杯を置いた。
「言いすぎると、おまえは余計に気を遣う」
見抜かれていたことに、ひまりは少しだけ笑う。
「ずるい」
「またそれか」
昼の光の中で交わしたその短いやり取りは、声のない時間にもちゃんと支えがあると教えてくれた。




