表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

17/28

第十五章 声を失う

祭壇の停止を巡る対立は膠着したまま、王都の負荷だけが増していった。

 そしてある朝、ひまりは目を覚ました瞬間に異変に気づく。

 静かすぎた。

 いつもなら枕元で騒いでいるはずの精霊たちの声が、まるで遠い。ココの姿は見える。トトもいる。けれど声が届かない。水の音に厚い布がかかったみたいに、全部がぼやけていた。

「……聞こえない」

 口にした途端、心臓が冷える。

 慌てて庭へ出ても、木々の響きは戻らない。中庭の大樹に触れても、あの日のような気配の返事がない。

 セレナが顔色を変えた。

「共鳴路が断たれていますわ」

「祭壇の過負荷で、おまえ自身が弾かれたのかもしれん」

 レオンの説明に、ひまりは唇を噛んだ。

「そんな……じゃあ、私、もう何もできない?」

 セレナはすぐに否定しなかった。それがかえって怖い。

 ひまりは部屋へ戻り、机に突っ伏した。木片を手に取っても、いつもの“中にある形”が見えない。空っぽのままだ。

 しばらくして、そっと扉が開く。

 レオンだった。

「食事を持ってきた」

「いりません」

「そう言うと思った」

 彼は勝手に机へ盆を置き、窓を少し開けた。春の風が入る。優しすぎて、今はつらい。

「私、役に立たなくなりました」

「それは違う」

「違わないです。声が聞こえないんです。私の取り柄、なくなりました」

 顔を上げたくなかった。泣きそうだからだ。

 けれどレオンは、いつもより静かな声で言った。

「おまえが王都でやってきたことは、精霊に声をかけたことだけではない」

「でも」

「祭りの流れを変え、村の水路を直し、人を笑わせた。おまえは場を整え、人をつないだ」

 ひまりは目を閉じる。

 そうだろうか。もしそうだとしても、肝心なときに声が聞こえなければ意味がない。

「怖いんです」

 やっとのことで、本音が零れた。

「みんなが期待して、私も何とかしたくて……なのに急に空っぽになったら、ここにいる理由までなくなる気がして」

 沈黙のあと、レオンの手がそっと机に置かれた。触れるわけではない。ただ、逃げ場を塞がない距離で。

「理由ならある」

「殿下の都合ですか」

「私の都合でもある」

 思わず顔を上げると、青い瞳が真っ直ぐに自分を見ていた。

「おまえがいて、城も街も少し変わった。私も」

 それだけ言って、彼は椅子から立ち上がる。

「戻る。食事は置いておく」

 扉が閉まったあと、ひまりはしばらく動けなかった。

 胸の中に残った言葉が、苦しいのに、少しだけ温かい。

 精霊の声は聞こえなくなっても、自分に届く声がひとつだけ、やけにはっきりしていた。

幕間 声のない祈り

 精霊の声が聞こえないまま準備の日々が過ぎる中で、ひまりは夜ごと温室へ通うようになった。

 花に水をやり、鉢の向きを変え、長椅子のクッションを叩き、床へ落ちた葉を拾う。大した作業ではない。けれど手を動かしていると、世界から完全に切り離されてはいないと思えた。

 ある夜、老侍女が小さな祈祷台を持ってきた。

「先代王妃さまがお使いだったものです」

 木目のやわらかい、小さな台だ。祈るためというより、手紙を書いたり花を置いたりするための高さをしている。

 ひまりはその上へ、最近削った葉飾りをひとつ置いた。見えない精霊へというより、自分自身へ返すためのしるしだった。

「聞こえなくても、ちゃんといますように」

 声に出してみる。

 返事はない。

 それでも、花の匂いが少しだけ濃くなった気がした。

 温室を出ると、廊下の先にレオンがいた。壁へもたれ、こちらを見るでもなく立っている。

「見張りですか」

「散歩だ」

「王子の散歩にしては静かですね」

「おまえもだろう」

 二人で並んで歩く。今夜は言葉が少ない。少ないけれど、その沈黙が重くないことにひまりは気づいていた。

「殿下」

「何だ」

「聞こえなくても、祈っていいと思いますか」

 唐突な問いだったが、レオンは間を置いてから答える。

「聞こえるから祈るのではない。祈るから、いつか届く」

 ひまりは足を止めた。

 それは彼らしい、簡潔で不器用な励ましだった。けれど、今の自分には十分すぎる。

「……ありがとうございます」

 返すと、レオンは少しだけ眉を寄せる。

「最近、おまえは礼を言いすぎる」

「言いたいので」

「なら仕方ない」

 仕方ないと言いながら、その声はどこかやわらかかった。声のない夜にも、届くものはあるのだとひまりは知る。

幕間 声のない朝

 ひまりが精霊の声を失った翌朝、王城は不自然なほど静かだった。

 いや、本当は静かではない。侍女の足音も、遠くの鐘も、庭師たちの話し声もある。ただ、その全部の向こうにいつも重なっていたはずのものが消えている。木々のさざめきに潜んでいた小さな返事も、水鉢の縁で笑っていた気配も、何も聞こえない。

 ひまりは西の中庭の腰掛けに座り、指先をぎゅっと握った。

「……いない」

 見えない。聞こえない。

 これまでは、うるさいくらいそばにいたのに。

 しばらくして、セレナが湯気の立つ茶を持ってきた。

「飲みなさい」

「ありがとう」

 ひまりが受け取ると、セレナは隣に立ったまま庭を見る。

「全部消えたわけではありませんわ」

「でも、分からない」

「分からないだけです」

 きっぱりとした言い方だった。

 それでも心は簡単に追いつかない。ひまりはうつむく。

「私、声が聞こえなくなったら、もう何もできないのかもって……」

「そんなはずありません」

 今度はレオンの声だった。

 いつの間に来たのか、彼は中庭の入口に立っている。朝の光を背負った姿はいつもより少しだけ厳しく見えた。

「おまえがここへ来てから変わったものを数えろ」

「え?」

「庭、橋、温室、市場、リュン村。全部、おまえが“聞こえた”からだけで変わったわけではない」

 レオンはひまりの正面まで歩み寄る。

「おまえは人を動かした。形を見た。場所を整えた。それは今も消えていない」

 ひまりは茶器を持つ指先へ力を込めた。

 たしかに、そうだ。

 村の溝を掘ったのは村人たちで、市場へ人を呼び戻したのも果物屋や橋守たちで、中庭へ腰掛けを戻したのは老庭師だ。自分はただ、ほんの少しだけ流れを示しただけかもしれない。

「……うん」

 小さく答えると、レオンの表情が少しだけゆるんだ。

「今日は休め」

「でも」

「命令だ」

「ずるい」

「知っている」

 そこでようやく、ひまりは少しだけ笑うことができた。声がなくても、失ったものばかりではないのだと、静かな朝の中で少しずつ思い出し始める。

幕間 失われた声でできること

 精霊の声が聞こえなくなってから数日、ひまりは意識して城の中を歩くようにしていた。

 足を止める場所。人が話しやすそうな角度。窓を開けた時に風が抜ける向き。以前なら精霊に教えられるように分かったことを、今度は自分の身体で確かめる。

 西の中庭で侍女たちが自然に笑い合っているのを見て、ひまりは小さく息をついた。

「ちゃんと残ってる」

 見えなくても、変わったものはそこにある。

 その日、研究棟へ差し入れを持って行くと、机の上の書類が風もないのにぱらりとめくれた。ひまりは思わず顔を上げる。何も見えない。けれど、ほんの一瞬だけ懐かしい悪戯の気配がした。

「……リリ?」

 返事はない。

 それでも、ゼロではないのだと分かる。

 その夜、ひまりは久しぶりに木片を手に取った。小さな葉の形を削る。音を立てず、削りすぎず、隠れている線を起こすように。

 完成した葉飾りを窓辺へ置いたとき、風がほんの少しだけ向きを変えた。

 声がなくても、返事がなくても、つながりは途切れていない。

 それは失ったものを取り戻す前に、ひまりが自分の手で確かめなければならないことだった。

幕間 無言の昼食

 声を失ったあとの数日、ひまりは人と話すのも少し怖かった。

 うまく笑えているか分からないし、周囲に気を遣わせていることも分かる。そんな昼、レオンが無言で昼食の盆を持って現れた。

「食べろ」

「……殿下が運んできたんですか」

「途中までは侍女だ」

 半分しか答えていない。

 けれど彼はそのまま対面へ座り、自分も同じものを食べ始めた。特別な励ましはない。慰めの言葉もない。ただ静かに、同じ時間に同じ食事をする。

 それが妙にありがたかった。

「おいしいです」

「なら良かった」

「殿下、こういうとき上手ですね」

「何が」

「何も言いすぎないところ」

 レオンは少しだけ考えてから、水杯を置いた。

「言いすぎると、おまえは余計に気を遣う」

 見抜かれていたことに、ひまりは少しだけ笑う。

「ずるい」

「またそれか」

 昼の光の中で交わしたその短いやり取りは、声のない時間にもちゃんと支えがあると教えてくれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ