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第十三章 王太后ミレイユの記憶

王都へ戻ったひまりを待っていたのは、慌ただしい報告と、ひとつの招待だった。

 王太后ミレイユが会いたがっている。

「王太后陛下が?」

「病床にあられるが、今なお城で最も多くを知る方だ」

 レオンに案内されて向かったのは、南向きの静かな離宮だった。窓辺には鉢植えの花が並び、薄いレースが風に揺れている。寝台に半身を起こしていた老婦人は、ひまりを見るなり微笑んだ。

「ああ、あなたなのね」

 ひまりは思わず背筋を伸ばす。

「は、はじめまして。天音ひまりと申します」

「礼儀正しい子。いいわ、そんなに緊張しなくて。わたくし、もう人を叱る元気もあまりないの」

 柔らかな声だった。けれど、その眼差しには長い年月をくぐった人だけが持つ強さがある。

 ミレイユはひまりへ手招きした。

「近くへいらっしゃい。あなたのまわり、とてもにぎやかね」

 ひまりは目を丸くする。もしかして見えているのだろうか。

 老婦人は小さく笑った。

「見えてはいないわ。でも分かるの。昔は、もっと身近だったから」

 ひまりはベッド脇の椅子へ座った。レオンとセレナも少し離れて控えている。

「レオンから聞いたわ。あなたが庭を戻し、森の声を聞いたと」

「戻す、ってほど立派なことじゃ」

「いいえ。戻す、で合っている」

 ミレイユはきっぱりと言った。

「この国は昔、自然を征服するのでも、ただ崇めるのでもなく、共に生きることを知っていたの。庭は飾りではなく、風を休ませる場所。水路は運ぶためだけでなく、人が季節を感じるための道。神殿も広場も橋も、みな土地の記憶と人の営みを結ぶ器だった」

 ひまりは息をのむ。

 それは自分が断片的に感じ取ってきたものと同じ方向を向いていた。

「けれど時代が進むにつれ、人は効率のよい仕組みを求めた。分かりやすく、命令しやすく、すぐ結果の出る力を」

「祭壇の再起動、ですか」

 セレナが問う。

「ええ。悪いことではないのよ。飢えや戦から人を守るために必要だったのでしょう。でも、そのたびに“余白”が削られていった。立ち止まる場所、祈る理由、季節に耳を澄ます時間。そういうものが失われると、精霊たちは怒るより先に、遠くなるの」

 ミレイユはひまりの手を取った。細いのに、驚くほど温かい手だった。

「あなたは、その遠くなった声を聞ける」

「……聞けても、全部救えるわけじゃありません」

「全部でなくていいの。ひとつずつで」

 その言葉に、ひまりは泣きそうになる。

 ミレイユはさらに小さな鍵を取り出し、ひまりへ託した。

「地下祭壇の奥には、もう一つ部屋があります。王家の記録庫よ。必要になったら開けなさい」

 レオンが驚いたように顔を上げた。

「祖母上、その鍵は」

「今使わずにいつ使うの。レオン、あなたは人を守るのが上手ね。でも、世界を信じるのは下手」

 痛いところを突かれたのか、レオンは口を閉ざした。

 ひまりは鍵を両手で受け取る。

「私、できるだけやってみます」

「ええ。あなたはもう十分、ここに風を通しているわ」

 部屋を出たあとも、その言葉はひまりの胸に残った。

 風を通す。

 自分がしたいことは、きっとその一言に近い。

幕間 王太后の刺繍箱

 王太后ミレイユの部屋には、小さな刺繍箱が置かれている。

 ある午後、ひまりが茶を運ぶと、老婦人はその箱を膝へ載せたまま窓辺に座っていた。

「見てごらんなさい」

 促されて覗き込むと、中には色とりどりの糸と、途中まで刺された布が入っている。花の輪郭、鳥の羽、波の線。どれも完成していないのに、それだけで綺麗だった。

「昔は祭礼衣装の裾にも、こういう返し模様を入れたの」

「返し模様?」

「風が入り、水が抜け、視線が留まる線よ」

 ひまりは布をそっと持ち上げた。確かにただ飾りではない。糸の流れだけで、どこへ目を動かせば落ち着くかが決まっている気がする。

「綺麗……」

「美しさは実用と喧嘩しないの。むしろ支え合うのよ」

 ミレイユの声はやわらかいが、言葉は芯がある。

「あなたの庭も、橋も、みんなそうでしょう?」

 ひまりはゆっくり頷いた。

「はい。きれいな方が、人って少しだけやさしくなれる気がします」

「ええ。その“少しだけ”が国を支えるの」

 王太后は笑い、ひまりの手へ小さな刺繍針を渡した。

「一本だけ、やってみる?」

 不器用ながら糸を通し、布へ針を落とす。線は少し曲がったが、ミレイユは「それでいいの」と言った。

 完璧ではなくても、誰かが手を入れることで場は変わる。刺繍箱の前で、ひまりはそれをまた別の形で教わった。

幕間 ミレイユの昔語り

王太后ミレイユは、体調の良い日だけ短い昔語りをしてくれた。

 ひまりが好きだったのは、若い頃の失敗談だ。

「昔の祭礼でね、風の返しを読み違えて、王都中のベールが全部池へ飛んでいったことがあるの」

「ええっ」

「先代国王は笑いすぎて椅子から落ちたわ」

 ひまりが声を上げると、ミレイユは楽しそうに笑う。

「昔の巫女たちも万能ではなかったの。むしろ失敗ばかり。だから人がいたのよ。笑ってくれる人、支える人、やり直す人」

「一人で全部できなくていいんですね」

「当たり前でしょう。全部一人で背負う巫女なんて、まるでつまらない」

 その言い方に、ひまりは肩の力が抜けた。

「レオンもね、昔はずいぶん一人で背負おうとしていたの」

「今もそう見えます」

「ええ。だからあなたが来てよかった」

 ミレイユの目は冗談でなくそう言っていた。

 ひまりは返す言葉に困り、代わりに茶器をそっと差し出した。

 老婦人は茶をひと口飲み、窓辺の花を見ながら静かに言った。

「恋というのは、相手を特別扱いすることではないの。相手の背負っている荷物の重さに、先に気づいてしまうこと」

 ひまりは湯気の向こうで真っ赤になった。

幕間 ミレイユの若い頃

 王太后ミレイユは、体調の良い日だけ、若い頃の話をしてくれた。

「わたくしも昔は走ったのよ」

「えっ」

「驚く顔をしないで。レオンより先に祭壇へ駆け込んだこともあるわ」

 ひまりが目を丸くすると、老婦人は楽しそうに笑う。

 若き日のミレイユは、当時の巫女と一緒に王都の水路を見て回り、夜中に温室の配置を変え、祭礼の前には裾を持って橋を走ったという。

「王族って、もっと座っているものかと」

「座っているだけで国が息をするなら楽でしょうね」

 その言葉は軽やかなのに、どこか切実だ。

「だからレオンにも、人に任せることを覚えてほしかったの。あの子は昔から、一人で背負いすぎるから」

 ひまりは静かに頷いた。

 ミレイユはそんな彼女を見て、やわらかく目を細める。

「あなたが来てから、あの子は少しだけ人へ頼る顔をするようになったわ」

 それを聞いた瞬間、ひまりの胸の奥で何かがそっとほどけた。


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