第十一章 小さな村の小さな奇跡
リュン村での生活は、思った以上にひまりの性に合っていた。
朝は井戸端を掃き、子どもたちと畑へ行き、昼は村の女たちと保存食を作り、夕方には祠の周りを整える。王城のふかふかの絨毯より、土の感触の方が落ち着く自分に苦笑したくなる。
もちろん楽なことばかりではない。
村の若者の中には、王都から来た“奇跡の巫女”に反発する者もいた。中でもカイという青年は、ひまりが水路の形を変えるたびに眉をひそめた。
「祈って畑が実るなら苦労しねえ」
「私もそう思います」
ひまりが即答すると、彼は拍子抜けした顔になる。
「え?」
「祈るだけじゃだめです。水路も掘るし、草も抜くし、泥だらけになります」
「……おまえ、巫女なんだろ」
「巫女ですけど、草は抜けます」
その日の午後、ひまりはカイと一緒に畑の畝を直した。水の流れが偏っている場所を見つけて、少しずつ傾斜を調整する。最初は不満げだったカイも、日が暮れるころには小さく言った。
「……確かに、水の回り方が違う」
「ですよね」
「なんで分かるんだ」
「なんとなく」
「いちばん信用できねえ答えだな」
言いながらも、彼は前ほど刺々しくなかった。
数日後、村の井戸がとうとう涸れた。
女たちが青ざめ、子どもが泣き、村長が顔を強張らせる。ひまりは井戸の縁に手を当て、耳を澄ませた。
深いところで、水はまだ生きている。けれど上へ上がってこられない。村の外れの小さな祠と、この井戸の間がうまく繋がっていない感じがした。
「祠へ行きます」
ひまりは走った。カイと数人の村人も続く。
祠は村の上手の林にあり、その前の石段が一部崩れていた。誰も怪我をしないよう近道を作った結果、人は祠の前を素通りするようになり、周囲の木も切られすぎていた。
「また、回り道か」
カイが半信半疑で言う。
「たぶん」
ひまりは頷いた。
「人って、ちょっと立ち止まる場所がないと、気づかないうちに急ぎすぎる気がする」
自分にも言えることだと思う。
村人たちと一緒に石段を仮に直し、近道を塞がずに、でも自然と祠の前で足が緩むよう丸太の腰掛けを置く。花を供える棚も作り、ひまりは木片から小さな水鳥の形を削って祠へ供えた。
最後に鈴の代わりに小さな金具を鳴らし、祝詞を唱える。
風が通った。
林の奥からさらさらと水が走る音がして、村人たちが息をのむ。
急いで井戸へ戻ると、深い底で水がきらりと光り、しばらくして静かに水位が上がってきた。
「戻った……!」
村長が涙ぐむ。
子どもたちが歓声を上げてひまりのまわりへ駆け寄り、カイは頭をかきながらそっぽを向いた。
「なんとなく、って答えはやっぱり信用しにくいけど」
「うん」
「でも、助かった」
短い礼だったが、充分だった。
その夜、村ではささやかな宴が開かれた。
煮込みと焼きたての薄パン、蜂蜜酒。豪華ではないが、笑い声が多い。ひまりはその輪の中にいて、王都の豪華な晩餐よりずっと満たされるのを感じた。
けれど同時に、夜空を見上げた瞬間、青い瞳が思い浮かぶ。
レオンは今、何をしているだろう。
そう思ってしまう自分に、ひまりはこっそり頬を押さえた。
恋なんて、もっとふわっと楽しいものだと思っていた。
実際は、会えないだけで妙に胸がぎゅっとなるらしい。
幕間 リュン村の朝市
辺境のリュン村で迎える三日目の朝、ひまりは小さな朝市へ連れ出された。
「大したものはありませんが」
村長が恐縮する横で、子どもたちは妙に誇らしげだ。広場へ布を敷き、その上に干した果実、山菜、手編みの籠、まだ曲がったままの焼き菓子などが並んでいる。
「すごい。ちゃんと市場だ」
ひまりが笑うと、子どもたちはますます胸を張る。
村の空気は、王都よりずっと素朴だ。けれど人の手と土地の近さが分かるぶん、呼吸は深い。問題は水が足りないことと、人が「もう良くならない」と思い込みかけていることだった。
ひまりは朝市の端にしゃがみ込み、地面を見た。
「ここ、水が通った跡があります」
村の青年カイが頷く。
「昔の溝だ。今は埋まってる」
「完全には埋まってません。戻せるかも」
彼女がそう言うと、周囲の大人たちは半信半疑の顔になる。だが子どもたちは違う。
「じゃあやろう!」
「掘る!」
行動が早い。
その勢いに大人たちもつられ、朝市はいつの間にか簡易土木作業へ変わっていった。ひまりは笑いながら袖をまくる。カイが慌てて止めた。
「あんた、客だろ」
「今は働き手です」
「王都の巫女ってこんなに泥だらけになるのか」
「王都の巫女じゃなくて神社育ちです」
言い返しながら、ひまりは浅く埋もれていた石を一つ持ち上げる。するとその下に、まだ湿り気の残る土が見えた。
『いる』
トトが嬉しそうに跳ねる。
『水、まだいる』
その言葉通り、溝を少し掘り返しただけで、細い流れが現れた。
大げさな奇跡ではない。けれど確かに生きている証だ。
村人たちは息を呑み、やがて一人、また一人と笑い出した。
「いけるかもしれねえ」
「まだ生きてた」
その声を聞きながら、ひまりは思う。
共鳴はたぶん、派手な力だけでは起きない。人が「もう一度やってみよう」と思う、その小さな瞬間にも宿るのだ。




