進撃の序曲、あるいは進化の予感
ドームを揺らしていた歓声が、嵐の前の静けさのように、低く重い熱気へと変わっていった。第3トラックをぴかりが丘学院がもぎ取ったという事実は、観客に衝撃を与えると同時に、絶対王者である白鳥学園の眠れる本能を完全に叩き起こしてしまった。
美墨なぎさは、バックステージへ戻るわずかなインターバルで、自分の手がまだ激しく震えているのに気づいた。それは恐怖ではない。極限の集中状態で、星空みゆきの「超速の跳躍」に合わせて旋律を編み出し続けた、神経の過負荷によるものだ。
「……ふぅ。まだ、指先が熱いわね」
なぎさが呟くと、隣に座った月影ゆりが、自身の汗を拭いながら穏やかに、けれど鋭い視線で応えた。
「美墨、今のあなたは最高に研ぎ澄まされているわ。でも、宇佐美さんはそれを『楽しんで』いる。彼女は、自分を脅かす存在が現れるのを、心のどこかでずっと待っていたのよ。……本当の地獄は、次の第4トラックから始まるわ」
ゆりの言葉を裏付けるように、白鳥学園の控室側のカーテンが揺れた。そこから現れた宇佐美いちかの姿に、観客席が再びどよめく。
いちかは、敗北の影など微塵も感じさせない、冷徹なまでに完成された「王者の佇まい」を保っていた。彼女はただ一人、鏡の前で喉の調子を確かめるように、短く、鋭い発声を繰り返している。その一音一音が、ドームの空気を物理的に切り裂くような鋭さを帯びていた。
「——準備はいい? 春野、紅城。……遊びは終わりよ」
いちかの静かな一言に、白鳥学園の面々が背筋を伸ばす。彼女たちは、ジョー監督が提唱する「圧倒的な個の集積」という教えを、今この瞬間、より純粋な形で体現しようとしていた。
第4トラック。イントロが鳴り響いた瞬間、ステージに放たれたのは、これまで以上の圧倒的な「音の質量」だった。
いちかが一歩前へ出て歌い始めただけで、ぴかりが丘のメンバーの呼吸が詰まる。それは、技術や戦術でどうにかなるレベルを超えた、絶対的な才能の奔流。いちかは、第3トラックでなぎさたちが見せた「共鳴」に対抗するように、自らの「個」をさらに巨大な盾へと変えて、すべての反撃を弾き飛ばしにかかった。
なぎさは、スピーカーから放たれるその音圧に抗いながら、必死に自分のリズムを保とうとする。
(……くっ、重すぎる! あいつ、負けたことで逆に迷いが消えてやがる……!)
いちかの旋律は、もはや「正解」を通り越して、聴く者に「屈服」を強いるほどの力を持っていた。支持率のメーターは、トラック開始早々、白鳥学園側へと一方的に振り切れていく。
だが、ぴかりが丘もただ黙って踏みつけられる烏ではない。
星空みゆきが、ステージを縦横無尽に駆け巡る。いちかの圧倒的な光に照らされることで、みゆきの影はより濃く、より鋭く伸びていく。なぎさは、その影の中に潜む「一瞬の死角」を、一秒たりとも見逃さなかった。
「——まだよ! 私たちは、あんな高い壁を一度は壊したんだから!!」
なぎさが放つ、極限のハイトーン。それは、いちかの黄金の旋律に風穴を開けるための、捨て身の特攻。それに導かれるように、日向咲と秋元こまちが、そして黄瀬やよいが、重厚な和音を重ねて、いちかの独壇場に「異物」を混入させていく。
ジョー監督は、ベンチでその光景を冷たく見つめていた。
(……美墨なぎさ。お前のリードは、確かに優秀だ。だが、お前がその小さな頭で計算を積み重ねている間に、宇佐美いちかは『本能』で進化する。……どちらが先に、ステージの神に愛されるか、見せてもらうぞ)
第4トラックは、これまでのどの楽曲よりも激しく、残酷な「生存競争」の様相を呈し始めていた。
いちかが放った、肺のすべてを使い切るような超ロングトーン。それが会場を支配し、ぴかりが丘のメンバーが耳を塞ぎそうになったその時、なぎさは、あえて音楽を「止める」ほどの静寂を差し込んだ。
一瞬の空白。 全観客の視線が、なぎさへと集中する。
「——跳びなさい、みゆき!!」
なぎさの叫びと同時に、みゆきが照明の光を背負って舞い上がった。 それは、絶望的な差を前にしてもなお、決して折れることのない「挑戦者」の翼。
王者がさらに高みへ登るなら、烏たちはその足を掴んででも、同じ高みへと這い上がる。 ドームの支持率は再び激しく揺れ動き、誰もがこの「終わらない夏」の行方に、固唾を呑んで見守っていた。
なぎさの瞳には、いちかと同じ「飢え」が宿っていた。 自分を、もっと高い場所へ。自分たちを、誰も見たことのない景色へ。
進化の序曲は、まだ鳴り止ない。




