虚実の羽ばたき、あるいは旋律の支配者
ドームの照明が、もはや火花を散らしているのではないかと思えるほど、ステージの熱量は異常な次元に達していた。第3トラックの終盤、一歩も引けないデッドヒートの中で、美墨なぎさの思考は、氷のように冷たく研ぎ澄まされていた。
(……もっと速く。もっと鋭く。あいつらの反応速度の、そのさらに「先」へ音を置く)
なぎさの指先がマイクの上で踊る。彼女が放つリードは、もはや単なる旋律ではなかった。それは白鳥学園という巨大な防壁を解体するための、精密な外科手術のような一音一音だ。なぎさは、宇佐美いちかの圧倒的な存在感を逆手に取り、相手の意識を強引に操作し始めていた。
「——さぁ、どこを見てるの? 王者の余裕はどこへ行ったのよ!」
なぎさの挑発的なラップが、紅城トワの「直感」を惑わせる。トワは、なぎさの視線が、そして気配が、ステージの右端にいる日向咲へと向いたのを確かに感じ取った。白鳥学園の三人が、一斉に咲の歌唱を封じ込めるべく、防衛のフォーメーションを右へと傾ける。
だが、その瞬間、なぎさは全く逆の方向、ノーマークだったステージの「空白」へと、矢のような高音を放り投げた。
「——今よ、みゆき!!」
そこには、いつの間にか誰よりも速く、影のように移動していた星空みゆきがいた。みゆきは、白鳥学園のメンバーが気づいた時にはもう、彼女たちの頭上、照明の熱が肌を刺すような高みへと跳躍していた。
「……っ、こいつ、囮か……!?」
紅城トワが歯噛みする。みゆきという少女は、その圧倒的な運動量と熱量ゆえに、立っているだけでステージ上の視線を吸い寄せてしまう「光の暴力」だ。なぎさはそのみゆきの性質を最大限に利用し、白鳥学園の守備陣を翻弄していた。
ドォォォォォン!!
みゆきの一撃が、無人の荒野と化した白鳥学園のサイドへ突き刺さる。支持率メーターがぴかりが丘側へと大きく跳ね上がり、ドームを揺らす大歓声が、王者の沈黙を嘲笑うかのように降り注いだ。
だが、その歓声さえも、宇佐美いちかの一瞥で凍りついた。
「……ふん。小癪な真似を。美墨、お前のその『指先』一つで、世界が変わるとでも思っているのか」
いちかの声は、激昂してはいなかった。むしろ、深い深淵の底から響くような、静かで重い威圧感に満ちていた。 いちかがゆっくりとマイクを構える。彼女の周囲に集まる春野はるかや紅城トワたちに、言葉は必要なかった。いちかが一歩前へ出るだけで、白鳥学園という一つの「生命体」が、再びその巨大な翼を広げる。
「——白鳥の歌に、まやかしは必要ない。ただ圧倒的な『力』があれば、それでいい」
いちかの歌い出しは、地鳴りのようだった。 第2トラックを奪われ、翻弄され続けてきた王者のプライドが、一つの旋律に凝縮される。それは、なぎさが築き上げた精密な戦術さえも、その「重さ」だけで押し潰すような、暴力的なまでの正解。
なぎさは、正面から迫り来る音圧に、思わず足がすくみそうになった。 (……何、これ。さっきまでより、さらに重くなってる……! まるで、このステージそのものが、あいつの味方をしてるみたいじゃない……!)
いちかの歌声は、スピーカーを通しているはずなのに、耳ではなく、直接「心臓」を掴んで揺さぶってくる。夏木りんが、月影ゆりが、必死にその音を受け止めようと声を重ねるが、いちかの旋律は彼女たちの防御を紙のように引き裂き、支持率を強引に奪い返していく。
「……これが、全国の頂点。……宇佐美いちか」
みゆきは、ステージの端で立ち尽くし、自分たちの頭上を通り過ぎていく「黄金の鷲」の影を見上げていた。なぎさがどれほど策を弄しても、いちかはそれをただ「上から叩き潰す」だけで、すべてを無効化してしまう。
ジョー監督は、ベンチで満足げに口角を上げた。 (そうだ、宇佐美。それでいい。コンセプトは常に一つだ。最強の『個』が、すべての未熟な『共鳴』を駆逐する。それがステージの真理だ)
白鳥学園が放った決定的なフレーズが、ぴかりが丘の陣営を沈黙させた。 支持率メーターは再び白鳥学園へ。 第3トラックの決着を前に、王者はその冷徹なまでの強さを取り戻していた。
なぎさは、荒い呼吸の中でマイクを強く握り直した。 「……へぇ、そう。力ずくで来るってわけね。……最高じゃない、受けて立つわよ!」
絶望的な差を前にしてもなお、なぎさの瞳には不敵な光が宿っていた。 烏たちは、この巨大な翼をどうやって引きずり下ろすのか。 極限のステージは、もはや誰にも予測できない領域へと突入していた。




