虚像の破壊、あるいは剥き出しの歌
第3トラックの熱狂は、もはや制御不能な領域に達していた。白鳥学園という巨大なシステムは、宇佐美いちかの圧倒的なセンター・ボーカルを軸に、寸分の狂いもないパフォーマンスを繰り広げている。観客の支持率を示すデジタルメーターは、無慈悲に白鳥学園の優勢を刻み続けていた。
しかし、その完璧な旋律の海に、異質な「ノイズ」が混じり始める。
「……え、ええと……っ!」
黄瀬やよいが、震える足でステージの最前列へと踏み出した。彼女の瞳には涙が浮かび、表情は今にも泣き出しそうだ。美墨なぎさから「センターに出ろ」と命じられた彼女は、恐怖と重圧に押し潰されそうになりながらも、必死にマイクを両手で握りしめた。
なぎさが狙ったのは、白鳥学園が作り上げた「完璧な調和」に対する、最大級のアンチテーゼだった。
やよいが喉を震わせて放った第一声。それは、いちかのような力強さも、はるかのような精密さも持たない、掠れて、震えるような高音だった。だが、その「弱さ」こそが、ドーム全体に張り詰めていた白鳥学園の緊張感を一瞬で霧散させた。
「……何、この音。リズムが……合わない!」
春野はるかが目を見開いた。彼女たちは、強靭で正しい音に合わせる訓練は完璧にこなしてきた。しかし、やよいが放つ、いつ消えてもおかしくないような「不規則なゆらぎ」を持った歌声への対処法は、白鳥学園の教本には存在しない。
やよいの歌声は、まるで霧のようにステージを浸食し、白鳥学園の鉄壁のダンスフォーメーションに微かな「迷い」を生じさせた。そのわずかな隙を見逃さず、なぎさが一気に攻撃のギアを上げる。
「——今よ! 全員、やよいの『ゆらぎ』に声を重ねなさい!」
なぎさの号令で、日向咲、秋元こまち、九条ひかりの四人が、やよいの震える声を芯にして重厚な和音を構築した。それは、洗練された音楽とは程遠い、剥き出しの感情をぶつけるような濁った共鳴。だが、その不格好な響きが、観客の心に直接爪を立てる。
「……ははっ、不快だねえ。あんなに弱っちい声なのに、僕たちのリズムを全部吸い取っていく!」
紅城トワが狂ったように笑い、自身のステップを強引に修正して、やよいの歌声をダンスで遮りにかかる。だが、そのトワの動きさえも、なぎさは計算に入れていた。トワが動けば、その後ろには必ず「いちか」という絶対の核を守るための空白が生まれる。
星空みゆきが、その空白に向かって閃光のように駆け抜けた。
「——私を、見てえええ!!」
みゆきが放った絶叫に近いハイトーンが、トワのガードをすり抜け、ドームの天井を突き破るかのように響き渡った。 静まり返る会場。支持率メーターが、白鳥学園の独走を食い止めるように激しく明滅する。
宇佐美いちかは、その光景をステージの頂点から静かに見つめていた。 彼女の表情に動揺はない。ただ、彼女の中で「アイドル」としての矜持が、かつてないほどに熱く、静かに燃え上がっていた。
(……美墨なぎさ。お前は私に、何を求めている。不格好な挑戦者の勝利か、それとも王者の墜落か)
いちかは、かつて青乃美希から言われた言葉を思い出していた。「あなたは天才。でも、誰かの期待に応えようとする限り、本物にはなれない」と。
いちかにとって、歌うことは期待に応えることではない。誰かを屈服させることでもない。ただ、自分の中に存在する「完成された音」を、この世に正しく出力すること。その一点において、彼女は誰よりも誠実であり、それゆえに最強だった。
「……下がれ。ここからは、私が歌う」
いちかの短い一言で、白鳥学園の五人が一斉にステージの背後へと引き下がった。 異様な光景だった。ドームの広大なステージに、宇佐美いちかが一人。
伴奏が消え、アカペラの時間が始まる。 いちかがゆっくりとマイクを構え、深く息を吸い込む。
その瞬間、ドームの空気が真空になったかのように重くなった。 いちかの口から放たれたのは、言葉ではない。魂そのものが音に変換されたかのような、圧倒的な「存在」の証明だった。
一音。ただその一音で、なぎさたちが苦労して築き上げた「不格好な共鳴」が、まるで砂の城のように崩れ去っていく。やよいのゆらぎも、みゆきの叫びも、いちかの放つ黄金の旋律の中に飲み込まれ、浄化されていく。
(……ああ。これが、宇佐美いちか)
なぎさは、抗うことすら忘れてその歌声に聞き惚れていた。 そこにあるのは、エゴでも、計算でもない。ただ、音楽という名の神に仕える、一人の巫女の姿だった。
第3トラックの終わりを告げるライトが、いちかの姿を孤高の女王として照らし出す。 支持率は、再び白鳥学園の圧倒的なリードへと戻っていた。
だが、いちかは歌い終えた後、肩で息をしながら、真っ直ぐになぎさを睨みつけた。 「……お前の不格好な歌は、不快だが……私の声を、少しだけ熱くさせた。……その代償は、高くつくぞ」
それは、絶対王者が初めてぴかりが丘を「対等な敵」として認めた宣戦布告だった。
ライブは、もはや技術の競い合いを超え、どちらの「生き方」がよりドームを支配できるかという、魂の削り合いへと突入していく。




