黄金の旋律、あるいは左利きの衝撃
ドームの照明が、ステージ中央に立つ宇佐美いちかを黄金色に染め上げた。彼女がマイクを口元に寄せた瞬間、数万人の観客が支配されたかのように静まり返る。
「——道を開けろ。私たちが、本物の歌を教えてやる」
いちかの口から放たれた先制の一音。それは、単なる歌声ではなかった。空気を切り裂き、直進する衝撃波だ。ぴかりが丘の守護神、夏木りんが瞬時に反応し、完璧なタイミングで自身の声を重ねてその衝撃を和らげようとした。
(……捉えた! このタイミングでアンサーを返せば、なぎさへ繋げる!)
りんは、死ぬ物狂いの練習で培った「音を受け止める感覚」を信じていた。しかし、次の瞬間。 「……っ!?」 快音を立てて共鳴するはずだったりんのバッキングが、予期せぬ方向へと大きくねじ曲がった。いちかの歌声は、りんのマイクをすり抜けるように歪み、会場のスピーカーから無残なノイズとなって弾け飛んだ。
会場がどよめく。鉄壁の守備を誇るりんが、最初の一撃で「音を拾う」ことに失敗したのだ。
「……何、今の。完璧に合わせたはずなのに、音が勝手に逃げていく……」
りんが自分の喉を、マイクを、戦慄しながら見つめる。なぎさもまた、目を見開いていちかを凝視していた。今の歌声には、明らかに異質な「回転」が加わっていた。
「……気づいたか。彼女の発声は、重心が通常とは逆方向にある」
なおコーチが、ベンチから鋭い視線をいちかに送る。宇佐美いちかは、世界でも数少ない「レフト・レゾナンス(左の共鳴)」の持ち主。通常、右利きのパフォーマーが放つ音の波形は、時計回りの微細な振動を伴う。しかし、いちかが放つ声の振動は、それとは正反対の「反時計回り」のねじれを持っており、受け止める側は無意識のうちにリズムを狂わされ、音を外側へと弾き飛ばされてしまうのだ。
「左の、歌声……」
なぎさが呟く。白鳥学園のパフォーマンスは、まさにこの「左」の優位性を最大限に活かした設計だった。いちかが歌えば歌うほど、ぴかりが丘のコーラスは相殺され、整えようとしたリズムがことごとく会場の隅へと散らされていく。
「——どうした。まだ一曲目だぞ。声が震えている」
いちかの追撃が始まる。紅城トワが作り出す冷徹なビートに乗せ、いちかの歌声はより激しさを増していく。ぴかりが丘は、星空みゆきの「超高速シンクロ・ボーカル」で応戦しようとするが、いちかの圧倒的な声圧が、みゆきの放つ一音一音を力ずくで押し潰していく。
「……っ、なぎささん! 音が、音が重すぎて、次のフレーズが出てこない!」
みゆきが叫ぶ。いちかの歌声は、聴く者の耳を塞ぎ、思考さえも麻痺させていく。圧倒的な「個」の力。それは土壌の良し悪しなど関係のない、荒野に咲く唯一無二の黄金の華だった。
第1トラックの前半が終了した時点で、観客の支持率は絶望的なほどの差がついていた。ぴかりが丘のメンバーの顔には、これまでの激闘で得た自信が、見る影もなく消え失せていた。
その時だった。ステージの端で、りんが一人、何度も何度も、自分の発声の角度を微調整していた。あえてマイクを左手に持ち替え、指先で音の波形をなぞるように。
「……一回、二回、三回。……よし、逆回転の軌道、完全に読み切ったわ」
りんが、なぎさたちの元へ歩み寄る。その瞳には、先ほどまでの困惑はなかった。
「みんな、顔を上げなさい! 確かにあの声は変則的だけど、歌は歌よ。……私の耳が、あいつの音のねじれに順応するまで三回はかかる。でも、四回目には必ず、あの逆回転を真っ向から受け止めて、あんたたちの旋律に乗せてあげる!」
りんの咆哮が、ぴかりが丘の凍りついた空気を打ち砕いた。 なぎさは、隣で肩を震わせていたみゆきの背中を強く叩く。
「……聞いたわね、みゆき。りんが繋ぐと言ってるんだ。あんたは、その先の爆発だけ考えてなさい。……どんなに重い空の下でも、一番高く跳んで歌うのはあんたの役目でしょ?」
「……はい、なぎささん!」
第1トラック、後半戦の幕が上がる。 宇佐美いちかが再び、最後の一撃を放とうと喉を震わせる。 黄金の鷲が空を統べようとするその下で、泥を纏った烏たちは、その巨大な影の中に、逆襲のメロディを刻み込もうとしていた。




