先輩の背中、烏の呼吸
合宿二日目の夜、熱気を孕んだ七ツ橋学園のスタジオは、リハーサルが終わってもなお、微かな電子音の残響が漂っていた。ぴかりが丘学院のメンバーたちは、床に座り込み、なおコーチから配られたスポーツドリンクを煽っていた。
「……信じられない。あんなに完璧に読まれてたのに」
なぎさが、自分の指先を見つめながら呟く。第2セット——二曲目のリハーサル終盤、ラブの予測を上回るために放った「崩したリズム」。それは成功こそしたが、なぎさにとっては「精密な計算」を捨てた、ある種の敗北感も混じっていた。
そんな中、みゆきは一人、スタジオの隅でスマートフォンの動画を見返していた。自分のダンス、なぎさのパス、そしてそれを「しなやか」に拾い続けた七ツ橋のメンバーの動き。
「なぎささん、私……もっと、もっと速くなれるかな」
みゆきの言葉に、なぎさは答えなかった。代わりに、背後から一人の少女が近づいてきた。七ツ橋の「脳」、桃園ラブだ。彼女は再びスマートフォンをいじりながら、気だるそうに口を開いた。
「……あんたたちさ。今のままだと、明日にはまた『詰む』よ」
ラブの言葉に、ぴかりが丘の面々が緊張する。ラブは画面から目を離さず、淡々と続けた。
「今の速攻は、確かにバグ(予測不能)だった。でも、一度体験しちゃえば、あとは計算式を書き換えるだけ。……あんたたちのセンター(みゆき)は、なぎさに依存しすぎ。なぎさが崩れたら、あんたはただの『跳ねるだけの置物』だね」
酷い言いようだったが、それは紛れもない真実だった。みゆきはなぎさのリードがなければ、その爆発的な攻撃力を発揮できない。
「……ラブ、あんまり苛めないであげてよ」
苦笑しながら現れたのは、七ツ橋のリーダー、山吹祈里だった。彼女はみゆきの前に屈み、優しく微笑んだ。
「でもね、みゆきちゃん。ラブがわざわざアドバイスに来るなんて、珍しいんだよ。それだけ、今のあなたの『翼』を認めてるってこと」
「……認めてない。ただ、攻略対象がすぐ消えたら、ゲームとしてつまんないだけ」
ラブはそう言い残すと、背を向けて歩き出した。その背中を、みゆきは羨望と悔しさが入り混じった瞳で見送る。
その夜、宿泊先の談話室。ぴかりが丘の六人は、なおコーチを囲んでミーティングを開いていた。
「いいかい、あんたたち。猫の強さは『繋ぎ』にある。誰か一人が優れているんじゃない、六人が常に『次』を予測して動いてるんだ。……それに対抗するには、個の力だけじゃ足りない。必要なのは、ユニットとしての『多層的な呼吸』だ」
なおの言葉を、部長の咲が真剣な表情でノートに書き留める。なぎさは隅で腕を組み、ひかりは不安そうにマイクのメンテナンスをしていた。
「なぎさ、あんたは特に、みゆきの力に頼るのを一度やめなさい。みゆきがいなくても、ひかりが、咲が、せつなが決めてくれるという『信頼』。それがあって初めて、みゆきの変人ダンスは本当の『囮』になる」
「……信頼、ですか」
なぎさの脳裏に、かつて自分が「王様」として孤立していたベローネ学院時代の景色がよぎる。あの頃、自分は誰のことも信じていなかった。でも今は——。
翌朝、合宿三日目。 朝一番のリハーサルで、ぴかりが丘に変化が現れた。
なぎさは、あえてみゆきを使わず、咲の堅実なコーラスや、ひかりの重厚なソロを多用し始めたのだ。みゆきはその間、ステージを縦横無尽に走り回り、七ツ橋の視線を必死に引き寄せる。
「……あ、変わった」
フロアの最後尾で、ラブが小さく呟いた。 これまでの「なぎさとみゆきのコンビ」を軸とした二次元的な戦術から、六人全員が連動して誰がセンターになってもおかしくない三次元的な戦術へ。
「なぎささん!」
みゆきが叫ぶ。ラブが「またみゆきに来る」と予測して重心を右に寄せたその瞬間、なぎさの指先から放たれた旋律は、左奥の九条ひかりへと届けられた。
「——っっはあ!!」
ひかりの咆哮。エースの圧倒的な歌声が、七ツ橋の虚を突き、フロアを支配した。
「やった……!」
ガッツポーズをするみゆき。なぎさは無言で、けれど少しだけ誇らしげに顎を引いた。 自分たちは、まだ完成には程遠い。けれど、かつて「自分一人で戦う」と決めていたなぎさが、仲間の背中を信じて「音を預ける」ことを覚えた。
その変化を、七ツ橋のメンバーも肌で感じていた。
「……面白い。ねえ、ラブ。これ、後半戦はもっと楽しくなりそうじゃない?」
祈里の問いに、ラブはスマートフォンの電源を切り、不敵な笑みを浮かべた。
「……そうだね。……ようやく、本格的に『デバッグ』を始める甲斐がありそうだよ」
朝の光が差し込むスタジオで、烏と猫の化かし合いは、さらに深く、さらに熱い領域へと突入していく。




