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『脳』の同期と烏の迷路

ぴかりが丘学院アイドル部が、これほどまでの「息苦しさ」を感じたことはなかった。七ツ橋学園との合同リハーサル、その第2セット——もとい、二曲目のパフォーマンスが中盤に差し掛かった頃、フロアの空気は目に見えない粘着質な糸で満たされているようだった。


星空みゆきは、激しいステップを踏みながら、何度も自分の「影」を踏まれているような錯覚に陥っていた。自分は確かに、なぎさの超高速のリードに合わせて、誰よりも速く、誰よりも高く跳んでいるはずだ。しかし、空中からフロアを見下ろすたび、そこには必ず、自分の着地点を予見していたかのように、七ツ橋のメンバーがしなやかに立ちはだかっている。


「……なんで。なんで、全部バレてるの!?」


みゆきが息を切らしながらなぎさに視線を送る。なぎさの表情もまた、いつになく険しい。彼女の放つボーカルパスは、コンマ数秒の狂いもなくみゆきの最高到達点へ届けられている。それなのに、七ツ橋のユニット全体が、まるで一つの巨大な生き物のように、みゆきの動きを「吸い取って」しまうのだ。


その包囲網の真っ只中で、桃園ラブは相変わらず、熱狂とは無縁の冷徹な動きを続けていた。彼女は激しく踊ることはない。しかし、その細い瞳は常にみゆきの足元、なぎさの指先、そして自分たちのフォーメーションの隙間をスキャンし続けている。ラブにとって、みゆきの「超抜ダンス」は、もはや驚異的な魔法ではなく、再現性の高い「プログラムの一部」に過ぎなかった。


ラブは歌のフレーズの合間に、隣を走る山吹祈里へ、ごくわずかなサインを送った。視線を一瞬だけ左の奥へ向ける。それだけで、祈里はすべてを理解し、ユニットの重心を微かに移動させた。


「……なぎささん、もう一回! もっと右に振って!」


みゆきが焦燥に突き動かされ、フロアを強く蹴る。なぎさはその要求に応え、あえて反対側のひかりへパスを出すと見せかけて、空中で反転させ、みゆきの手元へと鋭いメロディを飛ばした。視線誘導(目線)を使った、なぎさ渾身のフェイクだ。


しかし、その瞬間。


みゆきが跳んだ先にいたのは、昨日までなら空いていたはずの「空白」ではなく、待ち構えていたかのように微笑む祈里と、その背後で無表情に立ち尽くすラブだった。


「——っ!?」


なぎさが放った最高の一撃は、七ツ橋の三人による完璧な三重唱の壁にぶつかり、その勢いを完全に殺された。ひかりの破壊力あるハイトーンも、りんの献身的なバックアップも、すべてがラブの手の平の上で転がされている。


「……ねえ、みゆきちゃん」


ラブが、フォーメーションが入れ替わる一瞬の隙に、みゆきの耳元で囁いた。その声は驚くほど小さく、けれどフロアのどんな重低音よりも鮮明に響いた。


「……あんたの跳び方、もう飽きちゃった。もっと『面白いこと』、してくれないの?」


みゆきの背中に、氷のような冷たさが走った。ラブの瞳は、みゆきという一人のアイドルを見ているのではない。みゆきを動かしている「法則」を見て、それを攻略することにしか興味がないのだ。


ぴかりが丘の勢いが、目に見えて衰え始める。なぎさは焦りからリードの精度を乱し、ひかりは「届かない」焦燥に声を震わせる。なおコーチは、壁に背を預けたまま、その光景を静かに見守っていた。彼女の目には、今のぴかりが丘が陥っている「迷路」の出口が見えているはずだったが、あえて口は出さなかった。


「……なぎさ、落ち着け。あんたの音が、あの子に同期シンクロされすぎてる」


なおコーチが心の中で呟く。なぎさの精密すぎるリードは、あまりに論理的であるがゆえに、ラブのような「天才的な分析者」にとっては、最も読みやすい教科書になってしまっていたのだ。


一方、なぎさは自分の中に湧き上がる「苛立ち」と戦っていた。天才セッターと呼ばれた彼女にとって、自分のリードがこれほどまでに完璧に封じ込められた経験はない。みゆきを活かそうとすればするほど、みゆきがラブの「罠」に嵌まっていく。


「……私のせい? 私が、みゆきを殺してるの……?」


なぎさの指先が、一瞬だけ止まる。音楽は無情にも進んでいく。その空白を見逃すほど、七ツ橋は甘くない。ラブのサイン一つで、七ツ橋のメンバーが一気に攻勢に出た。


「——させないわよ!!」


崩れかけたぴかりが丘のフォーメーションを繋ぎ止めたのは、夏木りんの叫びだった。彼女は床を滑るように移動し、乱れかけた音の残響を、強引に拾い上げて空へ戻した。


「なぎさ! 下向いてんじゃないわよ! 前に跳ぼうとしてるバカがいるなら、あんたはそれを信じて音を繋ぐのが仕事でしょ!!」


りんの叱咤に、なぎさはハッと顔を上げた。 視線の先には、どんなに防がれても、どんなに攻略されても、再び「音」を求めてフロアを蹴ろうとしている星空みゆきの背中があった。


「……ああ、そうね。……私は、天才じゃなかったわ」


なぎさは自嘲気味に笑い、再びヘッドセットのマイクを強く握り直した。自分のプライドを守るためのリードはいらない。必要なのは、目の前の「バカ」が、あの猫の爪をかいくぐって、もう一度高く跳ぶための「空白」を作ることだ。


なぎさは、これまでの「理論的なパス」を捨てた。あえてリズムを崩し、ラブの予測データには存在しない、不規則なシンコペーションを楽曲の中に放り込んだ。


「……えっ?」


ラブの瞳が、初めて大きく見開かれた。 計算になかったリズムのズレ。その一瞬の「ノイズ」が、七ツ橋の完璧な同期に微かな歪みを生じさせる。


その歪みを、みゆきが逃すはずがなかった。 彼女はなぎさの意図を察し、これまでのどのデータにもなかった「無茶苦茶な角度」からのアプローチで、七ツ橋の包囲網を力技で食い破った。


「——うおおおおおっ!!」


みゆきの咆哮がスタジオに響き、七ツ橋の「繋ぎ」が初めて一瞬だけ途切れた。


曲が終わる。 両校のメンバーは汗だくで立ち尽くし、お互いを見つめ合っていた。 スコアも勝敗もないリハーサルだが、そこには確かな変革の風が吹いていた。


ラブは、荒い呼吸を整えながら、じっとみゆきとなぎさを見つめていた。その瞳には、先ほどまでの「飽きた」という色は消え、代わりに、攻略不能なバグに直面したゲーマーのような、底知れない、そして熱い好奇心が宿っていた。


「……なぎささん。……私、今、一瞬だけ『猫の爪』から逃げられた気がします」


みゆきが、汗を拭いながら笑う。 なぎさは、自分の震える指先を隠すように腕を組み、不敵に言い放った。


「……当たり前でしょ。二度も同じ罠に嵌まるほど、私はお人好しじゃないわよ」


烏の迷路は、まだ終わっていない。けれど、彼女たちは出口の鍵を見つけようとしていた。ラブの「脳」に対抗するために必要なのは、更なる進化。


合宿二日目の夜は、まだ始まったばかりだった。

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