忘れかけてた記憶
「今朝から話してる感じやと何も覚えてへん感じやけどな」
「何も覚えてないって…?」
桜花は直哉の言うことがさっぱり分からなかった。やっぱり、という顔をしながら直哉は声を潜めて耳打ちをした。
「桜花、小3の時まで大阪おったやろ。隣の家の人、覚えてへん?」
なぜこの人は桜花が大阪生まれということを知っているのだろうか。隣の家の人…桜花と同じ学年の男子が住んでいたことを思い出した。その男の子の名は──
「なおくん…?」
隣の家に住んでいて当時1番仲が良かった男の子の名は彼と同じく直哉と言った。しかし、苗字が違う。昔隣の家だったなおくんは深山直哉と言う名だったはずだ。
「あれでも、苗字違うよね?」
直哉はそうだった、という表情で説明を始めた。
「ごめんな、すっかり忘れてたわ。桜花が引っ越したあと、小学4年の時に両親が離婚してん。やから深山から高倉に変わってん」「そういう桜花も昔は佐築とちゃうかったやろ?」
そう、桜花も大阪から離れてから母親が再婚し苗字が佐築となったのだ。
「私は中学一年生の時に母が再婚して。その時に霧島から佐築になったの」
「そういう事か。でも良かったわ、桜花って確信したはいいけど苗字ちゃうからドッペルゲンガーかなにかかって不安やったから」
直哉の言葉を聞いて、桜花の胸の奥に忘れていた懐かしさが広がった。春の日差しのように、あたたかい記憶がじんわり蘇ってくる。
──小さな路地裏で一緒に鬼ごっこをしたこと。桜花が大阪を離れる日、何も知らずに「また明日」って笑っていた男の子の声。全部、忘れてたつもりでいたのに。
「……ほんとに、なおくんなの?」
震える声で問いかけると、直哉は優しく目を細めて、昔と同じ優しい笑顔で八重歯をのぞかせた。
「せやって。桜花が大阪の時通ってた幼稚園、小学校。そのクラスまで言い当てられるけど言ってみよか?」
胸がぎゅっと詰まる。目の前にいるのはテレビで見るキラキラしたアイドルじゃない。桜花が幼い頃に大好きだった、あの“なおくん”だったのだ。
「…信じられない。だって、もう二度と会うことはないと思ってたのに」
「でも俺はずっと桜花とまた会いたいって願ってた。桜花に俺の事を見つけてもらえるように桜花が好きって言ってた事務所に入ってアイドルになったんや」
「え……?」
あまりにも直球な言葉に、桜花は言葉を失ってしまった。頬が熱くなるのを誤魔化そうと、慌てて視線を逸らす。
──どうしよう。
ただのファンとして憧れていた存在が、自分の初恋の人だったなんて。
「なぁ、桜花」
直哉が少しだけ真剣な表情になった。
「俺のこと、倉田ナオやなくて高倉直哉として、ひとりの男として見てくれへん?」
ドクンと心臓が跳ねた。
「ちょ、ちょっと待って!いきなりすぎるよ!」
「まあそうやね、いきなり一人の男として見て欲しいって先を急ぎすぎたな。」「ゆっくりでええから。俺の事もう一度ちゃんと見て欲しい」
そう言って優しく笑う直哉の顔は、大勢の人を虜にするようなアイドルの笑顔ではなく──桜花にだけ見せる特別な笑顔だった。
桜花はとっくに忘れたと思っていた懐かしい感情に気づき始めていた。




