揺さぶられる心
ライブ翌日。
桜花は心の奥でまだ昨日の余韻を引きずっていた。最前スタンドから見た光景。会場を駆け巡る光と歓声。息を合わせて一斉に振られるペンライトの波。――その中心に立つのは、紛れもなく「倉田ナオ」であり、彼女の“推し”だった。
けれど。MCの時に彼が放った一言が、どうしても心に引っかかっていた。
『今日はな、大切な子が来てくれてんねん』
名前こそ出さなかった。けれど、あの瞬間、彼が視線を向けた先が自分だというのは、どうしたってわかってしまった。
胸がぎゅっと締めつけられる。
アイドルとしての彼と、クラスメイトとしての彼。自分はその境界線を大事にしたかった。けれど、あの言葉は、線をあっさりと越えてしまったように感じられたのだ。
――私だけが特別扱いされている。
そう思った瞬間、ファンとしての気持ちがざわついた。彼を応援する何万人のうちのひとりでいたい。偶然幼い頃からの顔なじみだからといって、優遇されたいわけじゃない。むしろ、公平な関係の中でこそ、ファンでいる意味がある。
だからこそ、心のどこかで「やめてほしかった」という気持ちが拭えないでいた。
帰宅後、SNSを開くと、さらに心が重くなる。
《MCの“大切な子”って誰のこと?》
《オーラス公演のナオくん、やけに特定の方向ばっか見てなかった?》
《スタンド最前の子にばっかファンサしてたね》
《私その子知ってる。Sakuraって名前でSNSやってるLUMINOUSの最古参オタで有名な子だよ》
推測と憶測が飛び交い、一部のファンが桜花の名前を出し始めた。
《私も知ってる、なんか腹黒そうって思ってたわ》
《推しに手出すとか最低》
画面をスクロールする指が震える。胸の奥にずしんとした重みが広がり、呼吸が浅くなる。彼を応援したい気持ちと、矢面に立たされる恐怖。その板挟みがどうしようもなく苦しい。
一方その頃。
直哉――いや、倉田ナオ本人は、自分の発言がこんな波紋を広げていることに気づいていなかった。
「大切な子」という言葉に特別な意図はない。ただ、桜花が来てくれたことが嬉しくて、口をついて出ただけだった。ステージの上では本心を隠す必要もなく、むしろ素直な自分を出せた気がして清々しい気持ちでいたのだ。
けれど、それが“偶像”を求めるファン心理にどう受け止められるか。
そこまで想像することは、直哉にはできなかった。
翌日、桜花はいつものように教室へ入るが、周囲の視線を妙に意識してしまう。――もちろん、大半はそもそも炎上のことすら知らない。ただ、自分がSNSで集中攻撃に遭っているのを知ってしまった今、誰かの何気ない視線さえ疑わしく思えてしまう。
席に着くと同時に、スマホが震えた。通知を見ると、また見知らぬアカウントからのメッセージ。
《ただのファンごときが倉田ナオに易々と近づくな》
短い言葉なのに、心を抉るには十分だった。
直哉が教室に入ってきた。明るい声で「おはよ」と言う。けれど桜花はまともに目を合わせられない。笑顔を返す余裕もない。
――だって、この状況の原因は、ほかでもない彼なのだから。
直哉は首をかしげる。昨日まであんなに楽しそうだったのに、どうして急に元気がないんだろう。何かあったのか。問いかけようか迷いながらも、結局「またあとでいいか」と心の中でつぶやいて席に着いた。
すれ違いは、またしても静かに広がっていった。




