壊れる壁
校外学習のあと、桜花は無意識に直哉から距離を取るようになっていた。
ほんの数日前までは自然に隣に立って、笑い合えていたはずなのに。今は、話しかけられても視線を逸らし、歩くときは一歩後ろに下がる。
──このままじゃだめ。
そう分かっているのに、胸の奥に居座る不安は消えなかった。
「……桜花」
放課後の中庭。ベンチに腰かけてノートを広げていた桜花の前に、直哉が立っていた。逆光に照らされるその姿は、いつだって誰よりも目立ってしまう。
「ちょっと話そや」
「……な、なにを?」
「決まっとるやろ。なんで俺を避けとんのかや」
低く抑えられた声。真剣な眼差し。胸がぎゅっと縮む。
「べ、別に避けてなんか──」
「嘘つけ」
ピシャリと遮られる。
「教室でも廊下でも、目ぇ合ったら逸らすし、話しかけてもすぐ切り上げる。桜花が俺を避けとるんは、誰が見ても分かるで」
まっすぐな視線に捕まって、逃げ場を失う。
「……そんなこと、ないよ」
「ある。俺が一番分かっとる」
ベンチの隣に腰を下ろした直哉は、桜花の方に体を向ける。制服の袖口からのぞく手首が、やけに近くて心臓が暴れた。
「…なんでや。俺、なんかしたか?」
「ちが…っ、違うの」
唇を噛み、下を向いたまま、ようやく絞り出す。
「…直哉は、ナオだから」
その言葉に、直哉の瞳が一瞬揺れた。
「俺がナオやから…?」
「日本で今1番の人気のアイドルで、ステージで輝いてて、みんなの憧れで…。そんな人の隣に、私なんかがいるのは、おかしいよ」
喉の奥が熱くなり、声が掠れる。
「…直哉の隣にいるの、私じゃない方がいい」
言い終わった途端、張り詰めた沈黙が落ちた。
直哉はしばらく桜花を見つめていたが、次の瞬間、吐き捨てるように言った。
「──ふざけんな」
ビクリと肩が跳ねる。
「おかしいってなんやねん。それ決めるんは桜花やない。俺が誰の隣にいたいか、俺が決めることやろ」
「……でも……」
「でもちゃう」
直哉は声を荒げ、膝に置いた拳を強く握りしめる。
「俺はアイドルである前に、高倉直哉なんや。俺の気持ちを、勝手に無かったことにすんな」
その言葉に、胸が締めつけられる。──直哉は、本気で怒ってる。
「俺は……」直哉は一度深呼吸し、まっすぐ桜花を見据えた。
「あのときからずっと、お前のこと探しとった。たしかに芸名は本名にほぼ掠ってへんし、見つけて貰いたかったって気持ちは矛盾してるかもしれへん。やけど、心の奥でずっと願っとったんは…桜花にもう一度会うことやった」
涙が込み上げて、視界が滲む。
──でも、私にはもうひとつの秘密がある。
「…私ね、直哉。ずっと、倉田ナオのファンだったの。初めて雑誌に載った時から、ずっと。他のファンからも一目置かれるくらい、誰よりも応援してきたの」
直哉の目が大きく見開かれる。
「…は?」
「だから…分かんないの。私にとってナオくんは夢そのもので、遠くから見上げる存在で。でも、直哉は小学校からの同級生で、幼なじみみたいな存在で…その二つが重なっちゃうと、心が追いつかなくなるの」
堰を切ったように溢れる言葉に、直哉はしばし絶句した。
やがて、苦笑を浮かべる。
「…アホやな」
「え…?」
「そんなん、悩む必要あらへんやろ。倉田ナオも、高倉直哉も、どっちも俺や。桜花にとって二人が重なるんは当たり前やんけ」
真っ直ぐに言い切るその声は、迷いがなくて、ずるいほど強かった。
「俺はアイドルになる前から桜花のそばにおったやろ。そりゃ昔に比べて若干…どころちゃうけど俺の知名度は上がったとして、本当の“俺”を知っとるんは桜花だけや」
気づけば、掴まれた手が温かくて、もう振りほどけなかった。直哉の怒りも、真剣さも、全部が痛いほどに伝わってくる。
──壊されていく。自分で作った壁なんて、あっという間に。
桜花の胸の奥で、張りつめていた糸が音を立てて切れた。




