【第7話】見えない星座
星図の中に、新たな形が現れ始めた。
それは、地球の星座には存在しない、“見えない星座”。
瑠璃の瞳に映る空と、詩音の観測が交差し、
記録されていく未知の記号――
誰が描いたのか、何のために浮かんだのか。
答えの見えない夜に、星たちは確かに動いていた。
翌朝、俺は早く目を覚ました。
昨夜、空を横切ったあの光の余韻が、まだ胸の奥に残っていた。
まるで、現実に起こったことじゃないような、夢の続きみたいな感覚。
けれど、机の上にはノートがあり、録音機があり、手書きの観測記録が残っていた。
それは、たしかに俺が“観測者”として過ごした夜の証だった。
階下に降りると、すでに母が朝食の準備をしていた。
その隣で、瑠璃が静かにトーストをかじっている。
ふと、彼女が俺に視線を向けた。
その瞳に浮かぶ光は、昨日よりも……ほんの少し、複雑になっている気がした。
「おはよう、お兄ちゃん」
瑠璃が言ったその一言に、思わず視線を奪われた。
……少し、声の響きが違う。
たったそれだけで、胸の奥に針のような違和感が刺さった。
けれど、それを口にすることはできなかった。俺は笑ってうなずく。
「今日、学校?」
「うん。普通にあるよ」
昨日と同じように笑う彼女に、星図のことは聞けなかった。
食事を終え、瑠璃がランドセルを背負って玄関に向かう。
俺はその後ろ姿を見送りながら、やっぱり気になって口を開いた。
「……昨日の夜、何か、変な夢とか見なかった?」
瑠璃は靴を履きながら、ふとこちらを振り返る。
その瞳に、わずかに戸惑いが浮かんだ気がした。
「……夢?」
「いや、なんでもない。行ってらっしゃい」
「……うん。行ってきます」
彼女が出ていった後、俺はすぐ自室に戻った。
星図のコピーとノートを並べ、もう一度、星の配置を確かめる。
夜にずれていた座標は、今朝見てもやはり違っていた。
そのうちのひとつに、俺は印をつけた。
「この星……昨日までは、ここにはなかったはず」
円形の配置、三角形の対角にある光点、そして今朝新しく現れた四つ目の星。
それは、ある“形”をなぞり始めていた。
「星座、か……?」
そう呟いた瞬間、脳裏に浮かんだのは、昨夜空を流れたあの光。
見えない星が織り成す星座――
もしかしたら、瑠璃の瞳の中にしか存在しない、“この世界では見えない星座”があるのではないか。
星図は、それを記録し続けているのかもしれない。
「俺にしか見えない星座……」
そのとき、視界の端にちらりとノートの余白が映った。
そこに、ペンで書いた覚えのないマークが、いつの間にか現れていた。
五つの点が、菱形のように並んだ図形。
その中央には、小さな円――
俺は思わず立ち上がった。
これは……誰が書いた?
いや、それよりも――これは、どこかで“見たことがある”。
手の震えが止まらなかった。
視界の端で、また瑠璃の瞳が、脳裏に焼きついた。
その日、学校の授業中も、俺の頭の中にはあの奇妙な図形がちらついていた。
五つの点、中央の円――ノートに浮かんでいたあの印。
自分で描いた覚えはない。なのに、どうしても“既視感”がある。
授業が終わると、まっすぐ図書室に向かった。
星座の資料を手あたり次第に開いていく。けれど、どれにも該当するものはなかった。
「地球の星座じゃない……?」
その言葉を口にしたとたん、背中に冷たいものが走った。
星図に描かれているのは、地球の空にない星の並び。
だとしたら――俺たちが知らない、“別の空”の星座なのかもしれない。
そのとき、ポケットの中のスマホが震えた。
瑠璃からのメッセージだった。
《兄ちゃん、今日ちょっと変なの。帰ったら話せる?》
鼓動が一気に早くなる。
“変なの”――その一言に、昨夜の光、今朝の図形、すべてがつながる気がした。
帰宅後、俺は玄関に飛び込むなり瑠璃の名前を呼んだ。
「瑠璃、どこ!?」
「こっち」
声のする方――リビングのソファに、彼女は座っていた。
しかし、その姿は、どこかおかしかった。
顔色が悪い。瞳はうつろ。
そして、またあのときと同じ、“別人のような声”で、静かに口を開いた。
「星が……増えてるの」
「え?」
「見えないはずの星が……わたしの中に、入ってくるの」
俺は近づこうとして、思わず足を止めた。
空気が重い。何かに押しつぶされそうな、圧力のようなものが部屋に満ちていた。
その瞬間、リビングの照明が、一瞬ふっと明滅した。
「――ッ!?」
瑠璃の瞳が、夜空のように深く沈んで見えた。
「瑠璃、しっかりしろ!」
俺は叫びながら彼女のもとに駆け寄った。
そのとき、彼女の瞳の中に――確かに“何か”が見えた。
小さな光点が、瞳孔の奥で動いていた。
まるで、空に浮かぶ星たちが、彼女の目の中に入り込んだようだった。
「……兄ちゃん。星が、話してくるの……」
瑠璃の声は夢うつつのようで、でもどこか遠くの誰かの声のようだった。
「どこかへ、行かなきゃいけない気がする……この星じゃない、どこかへ……」
その言葉が、何を意味するのかはわからない。
けれど俺は、心の底から“まずい”と感じた。
「大丈夫だ。俺がそばにいる。だから……どこにも行かないでくれ」
そう言いながら、彼女の手を強く握った。
そのとき――
瑠璃の手の甲に、淡く青い光が浮かび上がった。
それは、昨日見た星図と同じ配列をした星座だった。
彼女の中に、何かが記録されていく。
見えない星たちが、“新しい空”を描こうとしている。
俺は、彼女の瞳の奥に広がるその空を、ただ見つめることしかできなかった。
夜になっても、瑠璃の様子は落ち着かなかった。
熱はなく、身体に異常はないのに、彼女の瞳の中だけが、まるで別の世界を映しているようだった。
ソファに座る彼女の手を握りながら、俺は黙って隣に寄り添っていた。
「……星の声、少しだけ、遠くなったかも」
瑠璃がぽつりとつぶやく。
「今は、静か。だけど、ずっと見られてる気がするの」
「誰に?」
彼女は少しだけ考えてから、首をふる。
「わからない。でも、星図が……わたしの中じゃなくて、“外”から見られてる感じがする」
その言葉に、俺は昨日の“動く星”を思い出した。
あの光は――きっと観測者じゃない。
むしろ、俺たちを“観測している何か”だったのかもしれない。
俺はふと、机の引き出しにしまってあった星図のコピーを取り出した。
その紙に、昨夜見た謎の記号とそっくりなマークが浮かび上がっていた。
「……これ、昨夜はなかったはずだ」
何者かが、星図を通じて俺たちに“何か”を伝えようとしている。
それが誰なのか、何の目的なのか、まだ何もわからない。
でも――
「瑠璃、俺はもう決めた」
「え……?」
「これからも、お前のそばで星図を記録する。絶対に、逃げない。
どんなことが起きても、お前を守る。だから……一緒に、真実を探そう」
そのとき、瑠璃が小さく笑った。
「うん……兄ちゃんがいれば、大丈夫な気がする」
笑顔は不安をかかえながらも、確かにそこにあった。
そしてその夜――
俺は眠る瑠璃のそばで、星図の中にひときわ輝く新しい星を見つけた。
その星は、どこか“心臓の音”に似たリズムで、静かに瞬いていた。
その輝きは、まるで俺たち兄妹の絆を示すように、何度も光を繰り返していた。
まぶたの裏に、その光のリズムが焼きついて離れない。
俺はノートを手に取り、そっとその星の位置を書き込んだ。
「観測日時、23時42分。新規光点。星図南東部、中心より五度右。明滅周期、六秒」
手が勝手に動く。
書くたびに、確信に近づいていく気がした。
俺は今、この世界とは別の“空”を記録し始めている。
それは、もしかしたら――
まだ誰も観測したことのない、未知の星図。
「記録者は、俺なんだな……」
言葉にしたとたん、星図の線が、かすかに震えた気がした。
部屋の窓の外、夜空は変わらず静かだった。
でも俺の目には、もう見えない星々が確かにそこにあった。
そして、その中心には、瑠璃の瞳がある。
“観測される世界”の記憶と、“観測する者”の意志――
ふたつが重なったとき、何かが始まる。
そんな予感が、胸の奥で、静かに鳴っていた。
第7話では、“見えない星座”の存在が明らかになり、
星図がただの記録ではなく、“誰かの意志”によって描かれている可能性が示唆されました。
瑠璃の瞳に現れた星々、それを見つめ続ける兄・詩音。
ふたりの立ち位置は、次第に“観測する者”と“記録される器”へと深まっていきます。
次回、第8話「失われた観測者」では、過去と記録にまつわる大きな転機が待ち受けています。
どうぞお楽しみに。