【第6話】星を記録する者
星図に記された光は、ただの図ではなかった――。
瑠璃の瞳に宿る星たちは、少しずつその位置を変え始める。
動き出した記録、増える星の数。
それは静かな現実の中に、確かに異変が忍び寄っている証だった。
兄・詩音は、“観測者”としての第一歩を踏み出していく。
「君、この星図……どこで見つけたんだい?」
男の声は、抑えたトーンの中に驚きを含んでいた。
俺はノートを抱えたまま、戸惑っていた。
図書館の自然科学コーナー。星座や天文学に関する資料を読もうと立ち寄っただけだったのに、そこにいたのは、大学の研究員を名乗る男だった。
「この図、一般に出回っている星座図とは異なる。見たこともない構造だ。……だが、これは図として成立している。間違いなく“観測”された何かだよ」
男――田嶋という名札をつけた研究員は、俺の描いた星図を、まるで貴重な発掘品のように扱っていた。
「……妹の瞳に浮かんだんです」
俺は正直に言った。信じてもらえるとは思ってなかった。けれど、田嶋は眉一つ動かさなかった。
「瞳に星図、か。君の妹さん……いや、“その存在”は、おそらく記録媒体だ」
俺は言葉を失った。
「これはね、普通の星の並びじゃない。少なくとも、地球上の星図とは一致しないし、座標すら地球基準で読み取れない。おそらく、別の天体、あるいは……」
田嶋はそこで言葉を濁したが、俺は察した。
“別の世界”――その可能性を、この人もどこかで感じている。
そんな話が、現実の会話として進んでいることが信じられなかった。
だが、田嶋の目は本気だった。まるで、ずっとこの星図を探していたかのような。
「君が記録を続けているなら、そのまま続けるべきだ。これは誰かに“見つけられるため”に現れた可能性がある。君と、君の妹さんにしか見えないというなら……なおさらだ」
「俺たちにしか……」
「そう。“観測者”として選ばれたんだよ。これは偶然じゃない」
俺の背中に、なにか大きな責任がのしかかるような感覚が走った。
――記録を続けよ。
夢の中で聞いたあの声が、現実の世界でも反響しているように思えた。
「記録者には、もう一つの役目があるんだ」
田嶋がぽつりと続けた。
「役目?」
「ああ。観測するだけじゃない。“つなぐ”んだ。過去と未来を、世界と世界を――」
彼の言葉は、どこか詩のように曖昧だった。けれど、心の奥にずしりと残った。
気づけば、俺の手はノートを強く握りしめていた。
「……君たち兄妹に、これから何が見えるかはわからない。だが、それは君たちにしか記せないものだ」
その言葉が、まるで呪文のように響いていた。
図書館の窓の向こう、空はすでに茜色に染まり始めていた。
そして俺は、その記録者としての役割を、静かに受け入れ始めていた。
「兄ちゃん……今日は、来てくれてありがとう」
その一言が、不意に胸に刺さった。
図書館からの帰り道。俺は瑠璃を迎えに、小学校の下校門へ向かっていた。
家にひとりで帰らせるのが妙に心配になって、歩きながら考えた末の行動だった。
「どうした、急に」
「……わかんないけど、言いたくなったの」
瑠璃はそう言って、ランドセルの肩紐をぎゅっと握った。
この数日、彼女の中には明らかな“変化”があった。
言葉の選び方、話し方、表情。どれも少しずつ、以前の瑠璃とは違っていた。
俺が星図を写している間、彼女はただじっと見ていることが多くなった。
まるで何かを待っているように。
「ねぇ兄ちゃん。星図って、動くと思う?」
瑠璃がぽつりと呟いた。
「え?」
「昨日の夜、見たの。光が、すこし動いた気がしたの。たぶん、一つだけだけど」
俺はその言葉に、背中がぞくりとするのを感じた。
田嶋さんの言葉を思い出す。
――これは“観測されたもの”だ、と。
もし本当に星図が動いたなら、それは静的な記録ではなく、動的な“観測の継続”を意味する。
瑠璃の瞳に映る星は、まだ何かを“記し続けている”のかもしれない。
「動いた……って、どういうふうに?」
「んとね、点が、すこし右にずれたような……星座のかたちがちょっとだけ、変わってた気がするの」
俺は胸の奥がざわついた。
星図が“更新”されているとすれば、それは誰かが意図的に送ってきているということだ。
誰が? どこから? 何のために?
「兄ちゃん……わたし、怖いのかな、これ」
瑠璃が立ち止まり、見上げてきた。
その瞳の奥には、光る点がいくつも浮かんでいた。前よりも、わずかに増えているようにも見える。
彼女の中で星図は進み続けている。そしてその変化を、彼女自身が感じ取っている。
「瑠璃、大丈夫。俺がちゃんと見てるから。だから……怖がらなくていい」
自然と、そう言葉が出た。
言ってから、自分でも驚いた。だけど、俺の中にも確かな想いが芽生えていた。
この星図は、きっと導きだ。
俺たち兄妹が、たどるべき“道しるべ”なのだと。
家までの帰り道、瑠璃はずっと黙って歩いていたけど、その横顔はほんの少しだけ安心しているように見えた。
星図のひとつが動いたという事実。
それは、見えない何かが、俺たちを見ているという証かもしれなかった。
この先、何が起こるのかはわからない。
けれど、進むしかない。瑠璃と一緒に、この星の地図を読み解いていくために。
その晩、僕は部屋の電気を消して、机の上に広げた星図と向き合っていた。
薄く光を帯びた紙の上には、幾何学のような星の点と線。
どれも地球の星座とは似ていない。記憶のどこを探しても、この形は浮かんでこない。
「観測された星々は、いつ、どこで、誰が記録したものなのか――」
田嶋さんの言葉を繰り返しながら、俺は星図をなぞっていく。
それぞれの星に番号をふり、ノートに位置と形を写していく。
すると、ふと手が止まった。
番号で記したはずの星が、昨日と違う場所にある。
「……間違えたか?」
そう思って見直すと、瑠璃の言っていた通り、確かに星の位置が“ずれて”いる。
一つだけではない。二つ、三つ。星座全体が、ほんのわずかに歪んでいた。
気のせいではなかった。
星図は、生きている。
俺が今夜、書き写しているこの地図は、昨夜のそれとは違う顔をしている。
まるで、進行中の記録――いや、“通信”のようにさえ思えた。
そして、その記録媒体が瑠璃の瞳であるならば。
彼女の視線の先に、星図は新しい情報を追加しているのかもしれない。
机の隅に置いた録音機のボタンを押した。
「2025年6月17日、午後11時38分。観測者:詩音。
星図の再変化を確認。変化は前回観測時より、南側に二点。東側に一点の移動あり。
移動は自然現象では説明困難。記録媒体は……妹の瞳の内部である可能性が高い」
自分の声が響いて、少しだけ背筋が伸びた。
俺は今、ただの兄じゃない。
“観測者”として、この不可解な出来事を記録しているのだ。
――そのとき、窓の外で何かが揺れた。
風かと思ったが、違う。
カーテンの隙間から覗いた空に、星が……ひとつ、流れていくのが見えた。
流星、ではない。
それは、明らかに“ひとつの点”が、空を横切って移動していた。
人工衛星のような滑らかさでもなく、飛行機の光でもない。
動いていたのは、“星図に似た光”だった。
俺は、思わず立ち上がっていた。
星図が、俺たちの現実に干渉している――そんな予感が、肌にひりついた。
すぐにノートを開いて、見たままの光の動きを記録する。
「南西から北東へ、約五秒間。一定速度。白色光、一点のみ。軌道予測外」
手が震えていた。
あれはきっと、偶然じゃない。
俺が星図を見ているこの夜に、あの光が現れたのは――何かの“応答”だ。
観測者である俺に向けて、星図が、メッセージを発している。
「記録者……か。誰が、なんのために……」
思わず声に出たその言葉に、どこかで誰かが答えたような気がした。
耳鳴りのような、鼓膜の内側で響くかすかな音。
――シオン
名前を、呼ばれた気がした。
静かな部屋の中で、ただ俺だけがそれを聞いた。
星図は、俺に語りかけている。
この第6話では、瑠璃の中にある星図が“静止した記録”ではなく、“動き続ける観測データ”であるという重要な転機が描かれました。
兄・詩音が“観測者”として自覚し始めたこと、そして彼の目の前で現れた星図と呼応する光。
今後、彼らの前にどんな未知が現れるのか、第7話「見えない星座」でさらに謎が深まります。
どうぞ次回もお楽しみに。