【第5話】変わる妹、揺れる兄
瑠璃の中で静かに始まった“変化”は、兄である詩音にも影響を及ぼしていきます。
瞳に浮かぶ星図と、記録者としての役目。
まだ確かな答えはなくても、兄妹の絆が少しずつ変わり始める予感――
第5話、どうぞお楽しみください。
あの日を境に、瑠璃は少しずつ変わっていった。
いや、正確には“変わりはじめた”という言い方が近いかもしれない。
明確な理由もきっかけもなかった。ただ、妹の瞳の奥に宿った星図が、何かを引き寄せるように動き出している気がしてならなかった。
「お兄ちゃん、今日って、月がふたつあるのかな?」
その一言で、俺の胸に鈍い違和感が走った。
台所で夕飯の支度をしていた母が、「何言ってるの」と笑ったけれど、俺はすぐにベランダに出て夜空を見上げた。
ひとつしかない、いつもの月。けれど瑠璃は、まるでそれが当然かのように言ったのだ。「ふたつある」と。
日常の中に、非日常がまざりはじめている。
翌朝、俺は通学鞄に星図ノートを入れて学校へ向かった。
このところ、ノートに記録しておかないと、見たはずの星の並びをすぐに忘れてしまう。昨夜も、ベランダから見えた星図に、ひとつ新しい星が追加されていた。
「詩音、おはよー」
教室に入ると、クラスメイトの長谷が手を振ってきた。彼は星や宇宙にそこそこ詳しい。俺が以前、星座について少し興味があると言ったときも、図鑑を貸してくれたことがある。
昼休み、こっそりとノートを見せてみることにした。
「なあ、これ……星図っぽく見えないか?」
長谷は目を丸くしてから、何度もページをめくった。
「すげえな、これ。こんな並び、見たことない……というか、地球の星座じゃないな、これ」
俺は心の中で何かが引っかかるのを感じた。
やっぱり、地球の星じゃない――?
「いや、もしかすると……この並び、惑星か恒星系の配置図じゃないか?」
長谷がぽつりとそうつぶやいたとき、俺は思わずノートを奪い返しそうになった。
「……なんで、そんなこと思ったんだ?」
「うん、こういう配置って、昔NASAの探査計画の図とかで見たことあるんだよ。恒星を中心に軌道が回ってて、こう……らせんを描いてるような。星座っていうより、座標系みたいな感じ」
俺はその言葉を聞きながら、ゾクリと背筋が冷えた。
もしもこの星図が、地球の夜空じゃなく、別の“世界”を写しているとしたら――
妹の瞳に浮かぶそれは、まさに異世界からの“観測図”なのかもしれない。
頭の中で、昨日の瑠璃の言葉が反響する。
――月が、ふたつ。
もし、それが“その世界”の空ならば……。
ふと、ノートの余白に手が動く。俺は気づけば、星の軌道をなぞるように、円を描いていた。
放課後、家に帰ると瑠璃はリビングの窓辺で静かに座っていた。
窓の外は、いつもの景色。近所の公園と、夕日に染まる雲。それなのに、瑠璃はそれを「違う世界みたい」とぽつりとつぶやいた。
「どうした? 何か見えるのか?」
俺がそう聞くと、瑠璃は首をかしげてから、目を細めた。
「ううん……なんか、ここじゃないどこかを思い出してる気がするだけ」
記憶の迷子。それは、俺にも思い当たる感覚だった。
星図を見ているとき、俺の中にも確かにある。どこか、知っているようで知らない、懐かしくて新しい風景。
妹と俺は、同じ“何か”を見ているのだろうか。
「ねえ、これって昔からあったのかな?」
瑠璃はそう言って、額に触れる。
その瞬間、俺は気づいた。額に、うっすらと浮かび上がる光の粒。まるで、星座のような、小さな光点が繋がっていた。
「待って、それ……!」
思わず声が出た。
それは、俺がノートに描いた星図の、ほんの一部と同じ形だった。俺の記録と、瑠璃の身体が、つながっている。
この星図は、瑠璃の中にあるのか?
それとも、瑠璃が“星図そのもの”なのか――
俺の中で、これまでの出来事が音を立ててつながっていく。
母が忘れていた記憶。突然現れた星図。変わりゆく妹の言葉と仕草。
何かが、俺たち兄妹を通して動いている。
夕食のあと、俺はこっそりノートを持ち出して、部屋の窓際で続きを描いていた。
昼間、瑠璃の額に見えた星の模様が、ずっと頭から離れなかったからだ。
ノートの余白に、それを思い出しながら再現していく。点と点を結ぶと、まるで未知の星座のような形になる。
でも、それは地球の星座図には載っていない。
ふと、机の引き出しから昔のアルバムを取り出してみる。瑠璃がまだ保育園だった頃の写真。
小さな額には、あの模様はなかった。つまり――この模様は、最近になって現れたということだ。
俺の中で、何かが確信に変わりつつあった。
妹は、何かを“受け取った”のだ。あるいは、“変わり始めた”。
もしかすると、それは――この星図そのものの影響なのかもしれない。
その瞬間、ノートの端がふわりとめくれた。風など吹いていないのに。
「……またかよ」
無意識にそう呟いていた。
このノートには、ときどきこういうことが起こる。星図の線が勝手に浮かび上がることもあった。
今夜も、新しい星が一つだけ、端に描かれていた。
俺が描いた覚えは、ない。
俺と瑠璃。ふたりのあいだで、何かが確実に動き始めている。
記録者としての責任が、少しずつ重くなっていくのを感じながら、俺はそっとノートを閉じた。
その夜、俺は夢を見た。
瑠璃の瞳に浮かぶ星図が、夜空一面に広がっていく。
まるで宇宙そのものが妹の中に広がっているような、不思議な光景だった。
俺はその中で、ひとつの声を聞いた。
――観測者よ、記録を続けよ。
誰かの声。けれど、誰でもないような響き。
それは言葉ではなく、思念のように頭の中に直接届いた。
目が覚めたとき、手にはまた星図ノートがあった。
昨日書き終えたページの隣に、見た覚えのない新しい星の配置が記されていた。
「……俺、寝ぼけて書いたのか?」
そう思っても、記憶にはない。けれど、図形の精密さは寝ぼけて描いたものではないとわかる。
その朝、瑠璃が俺に言った。
「お兄ちゃん、あのね。今日、誰かが私を呼んでた気がするの」
呼ばれる? 誰に?
「どんな声だった?」
「……んー、わかんない。でも、心の中に響いてきたの。“こっちを見て”って」
まさか、俺の夢と同じ存在が、瑠璃にも……?
言葉を失いかけたとき、瑠璃が微笑んだ。
「でも、大丈夫。お兄ちゃんが一緒にいてくれるでしょ?」
その笑顔は、これまで見たどんな星よりもまぶしかった。
俺は、記録を続ける。
そして、変わっていく妹を見守る。
この先に何が待っているとしても――俺は絶対に、目を逸らさない。
夕方、学校から帰ると、瑠璃は部屋の窓に向かって何かを描いていた。
白いペンでガラスに映し出すように、空に浮かぶ星の形をなぞっている。
「それ、何してるの?」
そう聞くと、瑠璃はにっこり笑って言った。
「この星たち、今夜には場所が変わるんだよ。ちゃんと描いておかないと、忘れちゃいそうで」
俺ははっとした。まるで、観測者のような言葉だった。
「瑠璃、それって……誰に教わったの?」
「うーん、わからない。気づいたら知ってた」
答えは曖昧だけど、その姿は明らかに変化していた。
瑠璃の中に眠っている“何か”が、少しずつ表に出はじめている――。
俺はノートを開き、そっと隣に座った。
これが現実なのか、幻想なのか。そんなことはもうどうでもいい。
ただ、この瞬間を記録する。それが、俺にできることだと思った。
星図を描く瑠璃の横顔を、俺は黙って見つめていた。
幼かった妹は、もう俺の知らない何かに向かって歩き出している。
それでも――その隣にいられるなら、俺はこのまま進んでいける。
変わる瑠璃と、揺れる俺。
ふたりで見上げる空は、今夜も少しだけ、違って見えた。
星図は、ただの模様ではありませんでした。
兄・詩音と妹・瑠璃、ふたりの間にしかない不思議な現象が、確実に動き出しています。
瑠璃に訪れた“気づき”、詩音に芽生えた“覚悟”。
それぞれが自分なりの方法で「変化」に向き合い始めた回となりました。
次回、第6話「星を記録する者」では、
星図を見た“第三者”の視点が、新たな謎を運んできます。
お楽しみに!