【第4話】空白を埋めるもの
瑠璃の瞳に浮かぶ星図。その光が指し示したのは、かつて忘れられた“誰か”の記憶。
空白を埋めるように、少しずつ明らかになっていく家族の過去と、語られなかった想い。
今回は、見えなかったものが少しずつ形を持ち始める静かな転機となる一話です。
その日、久しぶりに母が古いアルバムを出してきた。
「懐かしいでしょ。整理してたら出てきてね」
テーブルの上に並んだ写真の束。幼いころの俺と瑠璃、父と母。何の変哲もない家族の記録だ――そう思っていた。
けれど、ページをめくる手が止まる。
ある一枚の写真に、強烈な違和感を覚えた。
そこには、俺と母と瑠璃、そして――知らない男性が写っていた。
優しそうな顔。俺の肩に手を置き、微笑んでいる。だけど、記憶にない。こんな人、見たこともない。
「……この人、誰?」
母は一瞬、ぎくりとした顔をして、すぐに目を逸らした。
「……ああ、昔、近所に住んでた人よ。よく遊びに来てくれててね」
その答えは、明らかに“嘘をついている人の声”だった。
瑠璃も写真を見つめていたが、何も言わなかった。けれど、俺にはわかった。彼女も気づいている。この写真の“空白”に。
夜になってから、俺はもう一度アルバムを開いた。ページをめくるたびに、ぽっかりと“記憶の穴”があいているように感じた。
写真には写っている。でも、覚えていない。
まるで、誰かの存在だけが“抜き取られている”みたいに。
第4話「空白を埋めるもの」 2of3
次の日、俺はこっそり母の引き出しから、アルバムの裏にあった封筒を見つけた。
そこには、もう一組の写真が入っていた。すべて、あの“知らない男”が写っている。
庭で笑う姿。運動会のグラウンド。リビングで絵本を読む後ろ姿。
どれも、まるで家族の一員みたいに自然だった。だが、それでも俺の中にはその人の“存在”が欠落していた。
瑠璃に写真を見せると、彼女はしばらく黙ってから、ぽつりとつぶやいた。
「……たぶん、この人、ほんとは“いた”んだと思う」
「なのに、なんで忘れてるんだよ。俺も、おまえも」
瑠璃は静かに目を伏せた。
「“消された”んじゃないかな。私たちの中から。星図と同じように、何かが……記憶の形を変えてる」
その言葉に、俺の中でひとつの仮説が浮かび上がる。
――星図は、単なる空の地図じゃない。
――記録と記憶、どちらかに変化が起きたとき、それを“補完”するものなんじゃないか。
だから、俺たちの記憶が欠けたときに、星図が浮かぶ。そこに“何が抜けたか”を、教えようとして。
その夜、俺はノートに新しいページを開いた。
“観測されなかった記憶は、星図に浮かぶ。”
第4話「空白を埋めるもの」 3of3
数日後、瑠璃が言った。
「ねえ、夢に出てきたよ。あの人。ずっと笑ってて、“ありがとう”って言ってた」
彼女はそう言って、静かに目を伏せた。涙ではなく、安らぎのようなものを湛えた表情で。
それを聞いたとき、俺の胸の奥にも、なぜか温かいものが広がった。
忘れてしまった記憶。消されてしまった誰か。それでも、その想いは、完全に消えるわけじゃない。
星図は、再び動き出していた。
中心の空白だった領域に、小さな光点が浮かび上がる。その星はゆっくりと線を描き、ほかの星たちとつながりはじめた。
“空白”だった場所が、ひとつの“星座”になろうとしている。
俺はノートを開き、その形を写した。震える手で鉛筆を走らせながら、思った。
この星図は、記録でもあり、祈りでもあるのかもしれない。
忘れられた人の想い。思い出せなかった記憶。名前すら失った何か。
けれど、それを心に抱き続ける者がいれば、きっと星は再び形になる。
俺たちはそれを、見届けていくんだ。
目に見えない“空白”を、光で埋めるように――。
その晩、瑠璃は早めに布団に入った。俺はひとりで居間のテーブルにノートを広げる。
アルバムの写真、封筒の中の写真、そして夢の中に現れた“誰か”。消えてしまった存在が、少しずつ輪郭を取り戻そうとしているようだった。
ページの端に、ふと思いついたことを書き込む。
「記憶には、心の重力がある」
忘れたくないと願った想いは、消えてもなお、どこかに残る。瑠璃の“忘れないで”という願いが、時間を越えて星図の中に痕跡を残したように。
そのとき、窓の外に気配を感じて立ち上がった。
夜空には、雲ひとつない星々。だが、俺の目にだけ、その星たちの間に“もうひとつの空”が見えた。
星図の形は、昨夜と明らかに違っていた。新しい星が、いくつも浮かび、まるで語りかけてくるように瞬いている。
ノートに書き写す手が止まらない。
「この配置……人の形に似ている……?」
それは奇妙な一致だった。封筒の写真に写っていた“彼”の立ち姿に、星の配置が酷似している。星図が、彼の記憶を象っているとでも言うように。
その瞬間、ひとつの確信が生まれた。
――星図は、観測されなかった“存在”を、描いている。
だからこそ、俺と瑠璃にしか見えないのだ。
そしてたぶん、これは始まりに過ぎない。
翌朝、母にもう一度あの写真のことを尋ねた。
「この人、ほんとは誰?」
母は少しだけ黙ってから、小さくつぶやいた。
「……あなたたちには、言ってなかったわね。実は、昔一緒に暮らしていた親戚なの」
「どうして、記憶にないの?」
母は静かに、でもはっきりと答えた。
「小さいころ、瑠璃が高熱を出したことがあって。そのとき、変なことを言い始めたの。“お兄ちゃんがふたりいる”って。あの人がいると、いつも夢の中が騒がしくなるって……」
「……だから、遠ざけた?」
「ええ。でも、それでも忘れられないようで、夜中に泣くこともあってね。最終的に……あの人は引っ越したの。私たちは、少しずつその人の話をしなくなっていった。忘れてしまった方が、楽だったから」
そう話す母の声は、どこか遠くの記憶に手を伸ばしているようだった。
俺はふと、ノートの端に書いた言葉を思い出した。
「記憶には、重力がある」
それは、心の中心に引き寄せられるようにして戻ってくる。
そしてその中心こそ、俺たちにしか見えない星図が生まれる場所なのかもしれない。
夜。星図は再び変化していた。
今まで存在しなかったはずの星が、昨日の人影のあたりに静かに光っていた。それは、あまりにも自然で、最初からそこにあったかのようだった。
俺はその光を丁寧に記録する。
線を引くと、まるで腕を広げて立っているような形になる。まるで、記憶の奥に消えた“誰か”が、静かにそこにいることを示しているかのように。
「ねえ、お兄ちゃん」
背後から瑠璃の声がした。振り返ると、彼女は星図を見ながら、少しだけ笑っていた。
「思い出せなくても、忘れたくないって思えば、きっとそれは残るんだね」
「ああ。たぶん、それが“記録”ってことなんだと思う」
ふたりで見上げた夜空には、俺たちの星図と、見慣れた星たちが重なるように瞬いていた。
もう、空白なんてない。たとえ何かを忘れても、その想いがあれば、形は変わっても“そこにある”。
俺は星図ノートにそっと書き込んだ。
――空白を埋めるのは、記憶じゃない。想いだ。
そして、そっとページを閉じた。
星図は、今日も少しずつ動いている。
明日また、どんな記憶が浮かぶのかはわからない。けれど、もう怖くはなかった。
この空の下で、僕たちは少しずつ、“見えなかったもの”を見つけていく。
それがきっと、俺たちの旅の始まりなんだ。
思い出せない記憶があってもいい。大切なのは、その中に何を感じていたかだ。
瑠璃が忘れた誰かを想うように、俺もまた、誰かの“忘れられた想い”を拾い上げたいと思った。
それが、星図に選ばれた意味なのかもしれない。
だから今日もまた、僕は星を記録する。
この世界に「完全な空白」なんてないのかもしれません。
記憶が薄れても、誰かを想う気持ちは、どこかに確かに残っている。
星図が少しずつ埋まっていくように、詩音と瑠璃の物語もまた、過去と未来をつなぎながら進んでいきます。
次回は、変わっていく妹の心と、それを見つめる兄の揺れを描きます。