【第3話】交わらない記憶
ひとつの出来事に、ふたりの違う記憶。
瑠璃と僕の間に生まれた、わずかな“ずれ”。
それは、ただの思い違いではなく、星図とつながる“時間のほころび”だった。
第3話「交わらない記憶」、
記録と記憶が交わるその先を、どうぞ見届けてください。
ある日、ふとしたことで、俺たち兄妹の“記憶”が食い違っていることに気づいた。
それは、本当にささいな会話からだった。
「この前も来たじゃん、ここ。覚えてないの?」
通学路の途中、小さな神社の前で瑠璃がそう言った。けれど、俺にはまったく心当たりがなかった。
「え? 俺、ここ来るの初めてだぞ」
「……うそ。お兄ちゃん、あのときお賽銭まで入れてたのに」
瑠璃は困ったように笑いながらも、確かに“そこにいた兄”の姿を記憶しているらしかった。
でも俺には、その出来事自体が存在していない。
気味の悪さと同時に、妙な引っかかりを覚えた。あの時と似ている――妹の瞳に星図が現れた時の、現実が少しだけ“ズレている”ような、そんな感覚。
その晩、俺はノートを開き、記憶の食い違いを含めて記録することにした。
日に日に複雑化していく星図の模様。点滅する星の周期、動きの方向、そして妹の体調や様子との関連。最近では星の動きが“戻る”ことすらある。つまり、星図は時間の流れを記している――そんな仮説まで思い浮かんできた。
星図と記憶のズレに、何らかのつながりがあるとすれば。
これはもう偶然なんかじゃない。
第3話「交わらない記憶」 2of3
その夜、瑠璃もまた、夢を見ていた。
「お兄ちゃん、なんか変な夢を見たの。私、知らない部屋にいて……そこに、もうひとりのお兄ちゃんがいたの」
朝食の途中、スプーンを止めてぽつりと口にした言葉に、俺は箸を止めた。
「もうひとり?」
「うん。でもね、顔は見えないの。声もはっきり聞こえないのに、どうしてか“お兄ちゃん”ってわかるの。不思議だったけど、全然怖くなかった」
その夢の内容を聞いているうちに、俺の背中にうすら寒いものが走った。
まるで、彼女の“もうひとつの記憶”が、夢として浮かび上がっているようだった。
学校へ向かう道すがら、俺はこれまでの星図の変化を思い出していた。
星たちは、“一定方向”に動いていたはずなのに、昨日は珍しく、複数の星が逆向きに回転していた。ノートに描いた軌跡は、まるで時計の針が巻き戻るような形になっていた。
「記憶と星図は、リンクしてる……?」
そんな仮説を頭の中で組み立てていたとき、不意に瑠璃が立ち止まった。
「お兄ちゃん、あれ……前に見たよね?」
指さす先には、赤い鳥居と古びた石段。けれど、俺にはまったく見覚えがない。
「いや、知らない場所だよ。来たことない」
「……うそ。前に、ここで写真も撮ったのに」
彼女はスマホを取り出して操作する。けれど、該当する写真は出てこなかった。
「消えた……?」
第3話「交わらない記憶」 3of3
俺たちの記憶が、確かにどこかで“交差していない”。
けれどそれは、どちらかが間違っているというより、異なる時間軸を歩いていたような感覚に近かった。
夜、ベランダに出て空を見上げると、妹も隣に立っていた。
「もし、ほんとの“お兄ちゃん”が二人いたとしたら、どうする?」
唐突な問いに、俺は少し考えてから答えた。
「どっちの俺も、瑠璃のことを守りたいって思ってるなら、どっちも“本物”でいいんじゃないか」
「……それ、いいね。なんか安心した」
妹の瞳に浮かぶ星図は、その夜、不思議なほどくっきりと見えた。普段は白に近い光なのに、ほんの少しだけ青みがかっている。
「色が変わってる……?」
「うん、なんとなく。でも、怖くはないよ」
そのとき、星図の中に、これまでになかった“新しい点”が浮かび上がった。光は弱く、まだ不確かな位置にある。それはまるで、“新しい記憶”が生まれる瞬間のようだった。
記録者である俺にしか見えない星。
そして、器である瑠璃の中にしか存在しない記憶。
このふたつが重なるとき、星図は新たな地図を描くのかもしれない。
その夜、俺はノートにこう記した。
――記憶は過去だけじゃない。“未来の記憶”も、ここにはある。
その夜、俺は眠れずにいた。
部屋の明かりを落とし、星図ノートを広げる。窓の外では虫の音だけが響いていて、世界はひっそりと静まり返っていた。
ノートの片隅に書いた「未来の記憶」という言葉を、俺は何度も見つめていた。
記憶とは過去のもの。けれど、もしそれが“予兆”であるなら? 未来を先に心が受け取り、それが記憶として先行する現象――それが、今、瑠璃に起こっているのだとしたら。
そのとき、机の上に置いてあったスマホが微かに震えた。画面には、「1年前の今日」として、写真が自動で表示されていた。
俺は息をのんだ。
それは、瑠璃と一緒に神社の前で撮った写真だった。確かに、赤い鳥居と石段、あの場所だった。けれど、俺はそんな写真を“撮った記憶”がない。
「記録にはあるのに、記憶にはない……?」
頭が混乱する。スマホの中のデータは、確かに俺たちがそこにいたことを示している。でも、思い出せない。まるで、そのときだけ記憶を“抜かれた”ような。
俺は急いでその写真を印刷し、ノートに貼り付けた。その横に、今日の星図の変化を書き加える。
星の動きは、中央の“空白点”を越えて、新しい円を描き始めていた。
まるで、時計の針が一周して、新たな時を刻み始めるように。
ふいに、背後から気配を感じて振り返ると、瑠璃が立っていた。眠っていたはずの妹が、無言で俺を見つめている。
「……また見たの」
「夢か?」
「ううん。“記憶”。私、あの神社でお願い事したの。お兄ちゃんが、どうか、私を忘れませんようにって」
その言葉に、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
彼女は覚えていた。俺が忘れていた大切な時間を、彼女だけが抱えていた。
記憶は、共有されるものじゃないのかもしれない。
でも、たとえ交わらなくても、ふたりの想いが重なる瞬間は、確かにある。
俺はそっと、彼女の頭に手を置いた。
「もう忘れないよ。俺は、全部、記録するから」
瑠璃は微笑んで、小さくうなずいた。
そのとき、星図の中に新たな線が走った。
――それは、記憶と記録をつなぐ光だった。
その翌日、俺たちはもう一度、赤い鳥居の神社へ向かった。
何かを確かめるように、瑠璃は石段をゆっくりと上がっていく。俺も後に続いた。空は晴れていて、夏の終わりの風が頬を撫でる。
境内に立つと、不思議な既視感に襲われた。初めて来たはずなのに、どこか懐かしい。目を閉じると、誰かの笑い声が遠くで響いた気がした。
「ここでお願いしたんだよ」
瑠璃は小さな声で言った。
「お兄ちゃんが、私を忘れても……いつか、また思い出してくれますようにって」
その瞬間、胸の奥に何かが流れ込んできた。あの日の夕焼け。境内の空気。瑠璃が手を合わせている横顔。すべてが鮮やかに蘇る。
記憶は、なくなっていなかった。ただ、星の向こう側に隠されていただけだった。
「思い出したよ」
俺の声に、瑠璃はぱっと笑った。
その笑顔の奥に、もう一つの星が、静かに光っていた。
帰り道、ふたりで並んで歩く時間が、少しだけ特別に思えた。
星図のことも、夢のことも、誰に話してもきっと信じてもらえない。けれど、俺たちにはそれが“現実”なんだ。
交わらなかった記憶が、いま、ひとつの光に変わっていく。
次に星図が示す場所がどこであっても、俺はもう迷わない。
だって、隣には瑠璃がいる。
それだけで、きっと十分だ。
星図は静かに回り続けている。まるで、まだ語られていない記憶たちを、夜空の奥からひとつずつ引き寄せるように。
その光を、俺はこの手で記していく。
。 まだ見ぬ星が、きっと導いてくれる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
第3話では、兄妹の“記憶の食い違い”と、それが星図の動きと呼応している可能性が描かれました。
同じ時間を過ごしているはずなのに、どこか重ならない記憶。
それは異なる時間の断片か、それとも“未来からの記録”なのか――。
次回、第4話「空白を埋めるもの」では、家族の記憶の空白に踏み込んでいきます。
よろしければ引き続きお付き合いください。