【第19話】境界を越える影
“観測不能な場所”を経て、詩音と瑠璃は次の段階へ進みます。
この第19話では、ついに「現実」と「異世界」の境界に接触し、
星図が示す新たな領域と、過去に星図を捨てた存在との邂逅が描かれます。
兄妹が向かう「越境」の瞬間に、どうぞ心を添えて読んでみてください。
夢と現実の境目が、だんだんと曖昧になっていくのを感じていた。
俺と瑠璃は、“観測不能な場所”から戻ってきた。
けれど、それは単なる“元の世界”ではなかった。
街は同じ形をしていた。建物も、人々も。
なのに、どこかが決定的に違っていた。
たとえば、空の色。
ほんのわずかに、青の中に紫が混じっている。
たとえば、時間の流れ。
誰かの声が、数秒遅れて届くような、そんな感覚。
「兄さん……ここ、本当に“私たちのいた世界”?」
瑠璃の問いに、俺は答えられなかった。
たしかに似ているけど、同じではない。
俺たちは、もう“戻れない場所”に来てしまったのかもしれない。
「……見えるか? あれ」
俺が指さしたのは、公園の入り口。
そこに、ひとつの“影”が立っていた。
黒いコートをまとった背の高い人物。
顔は見えない。光を吸い込むようなその存在は、周囲と溶け合っていた。
「……誰?」
「わからない。でも、あいつ……俺たちを“見てる”」
次の瞬間、その影は動いた。
滑るような動きで、影は俺たちの方へと近づいてくる。
普通の歩き方じゃない。重力の影響を受けていないような、
地面からほんの少し浮かんでいるような、異質な歩みだった。
「兄さん、離れよ……!」
瑠璃の手が震えていた。けれど、その瞳は真っ直ぐ影を見据えている。
逃げるか、立ち向かうか――判断するより早く、
影は俺たちの目の前、数メートルの距離でぴたりと止まった。
「……鍵と、器。やはり、君たちか」
低く、静かな声が空間に響く。
それは音として耳に届いたのではなく、
直接頭に響くような奇妙な感覚だった。
「あなたは……“星図を読む者”?」
俺の問いに、影はほんのわずかに首をかしげた。
「いや、私はその“失敗作”だ。観測を拒み、境界に堕ちた者」
瑠璃が小さく息をのんだ。
「……観測を拒んだ?」
「記録者が、記録を裏切ったとき、
その意志は“影”となって境界をさまよう」
それは、自らの役目から逃れた者の成れの果て――
だが同時に、俺たちの未来の可能性でもあるように思えた。
「君たちは、記録の旅を続けるのか? それとも……」
影の問いに、俺は言葉を選びながら答えた。
「記録は、誰かが見つけなきゃ意味がない。
だから、俺は最後まで見届けたいと思ってる」
しばらくの沈黙のあと、影が微かに笑った気がした。
「ならば――境界の向こうで待っていよう。
君たちが“越えられる者”かどうかを、見極めるために」
影の輪郭が、にじむように消えていった。
その足元に、小さな光のかけらが落ちていた。
それは、新たな星座の“欠片”だった。
“影”が残した星座の欠片を拾い上げた瞬間、
世界の色がふっと変わった気がした。
それは小さな、破片のような光だったけれど、
触れたとたん、俺の頭の中に新しい星図が流れ込んできた。
「……これ、星図の一部だ。でも……おかしい。星の配置が、反転してる」
見慣れた星の並びとは違う、鏡に映したような形。
「ねぇ兄さん、それって……“向こう側”から見た星じゃない?」
瑠璃のその一言で、すべてがつながった気がした。
この星図は、俺たちの世界ではなく、“異なる視点”のもの。
「もしかして、影は……あっちの世界から来た?」
「ううん、違う。“もともとこちら側にいたのに、拒んで堕ちた”って……」
記録を放棄した存在。
その意思が“反転した星図”という形で、いま俺たちに託されたのだ。
「……これ、解読できれば次の座標がわかる。
でも、俺ひとりじゃ、意味を読み取れない」
「だから、“私と一緒に”ってことでしょ」
瑠璃が笑った。その瞳には、また微かに星図が灯っていた。
俺たちは公園のベンチに座り、手元の欠片をそっと並べた。
すると、光の粒がふわりと浮かび、空間に星の線が描かれていく。
「これは……見えない星座だ」
夜空には存在しない、けれど星図には刻まれた“誰かの記憶”。
その光は、まるで過去の想いが形を成しているようだった。
「この欠片……過去に記録を放棄した者が最後に残した“道しるべ”なんだと思う」
「記録を拒んだはずなのに、最後の瞬間だけ、残したんだね」
星の線が交差する点に、ひとつの座標が浮かび上がった。
「これ……現実の地図には存在しない場所だ。海の、もっと向こう。
でも、星図の中では“次の地点”として示されてる」
「向こう側に渡る“扉”……きっとそこにある」
俺たちはまた旅を続けることになる。
見えないものを、記録するために。
「でも兄さん、本当に行けるのかな。“あっちの世界”って……どうやって?」
瑠璃の不安げな声に、俺は手のひらの星図の欠片を見つめながら言った。
「……きっと“見えること”が、扉を開く鍵なんだ。
俺たちはもう、ただの観測者じゃない。星図の記録を、継いでるんだと思う」
夜の帳がゆっくりと降りてきた。
どこか遠くで、知らない鳥の鳴き声が響いた気がした。
それは、この世界には存在しないはずの“音”。
「感じる? 兄さん。世界が、少しずつ変わっていく……」
俺はうなずいた。
星図が、俺たちの存在を通して、“境界”を揺らしている。
次に進むべき道は、もう示されている。
あとは、その境界を“越える”だけだった。
次の座標は、現実の地図に存在しない“空白”だった。
海の先にあるはずのない島、あるいは、沈んだ大陸の影。
けれど、星図は確かにそこを指し示していた。
「船……出そう」
俺の声に、瑠璃がきょとんとした顔をしたあと、微笑んだ。
「兄さん、ほんとに行くつもりなんだね」
「うん。星図が示してる。それに、きっと向こうで何かが待ってる」
それは“扉”かもしれないし、“記録者”かもしれない。
もしかしたら、かつてこの旅を途中で捨てた“誰かの痕跡”かもしれない。
俺たちは海沿いの港町へと向かい、小さな漁船を借りた。
航路も、目的地も不明だというのに、漁師のじいさんは驚くほどあっさり了承してくれた。
「昔もな、不思議な光を追って海へ出てった兄妹がいたよ。あんたら、似てる」
その言葉が、妙に耳に残った。
船が海に出た瞬間、空気の色が変わった。
空は晴れているのに、どこか“重さ”を感じる。
まるで、目に見えない結界をくぐったような、そんな感覚だった。
「ここから先が、“境界”なんだと思う」
俺の言葉に、瑠璃がそっと瞳を閉じる。
「……星図、また動いてる。今度は、ゆっくりとだけど――生きてるみたいに」
海の上に浮かぶその軌道は、まるで誰かが導いてくれているかのようだった。
「記録する者は、孤独じゃない。きっと、これまでにもいた。
星図は、その記憶の集積体なんだ」
進むごとに、風景が変わっていく。
空の星が昼でも見えるようになり、波が星の光を反射して、銀の帯のように揺れていた。
「兄さん、あれ……!」
水平線の向こうに、うっすらと浮かぶ“影”。
陸地か、それとも巨大な何かの残響か。
その中心に、光の輪のようなものが見えた。
「……扉だ」
俺たちは、ついに“境界を越える場所”に辿り着いたのだ。
けれど、扉の手前に、ひとつの人影が立っていた。
遠くて顔は見えない。
ただ、その姿にはどこか見覚えがあった。
「……あの人……」
瑠璃がぽつりとつぶやく。
「知ってるの?」
「わからない。でも、さっきの“影”とは違う。もっと……あたたかい気配」
俺たちが船を近づけると、その人物はゆっくりと手を上げた。
まるで「ようこそ」とでも言うように。
そして、扉の中央が、静かに開いた。
輝く光が俺たちを包み、現実と異世界、その境界がふわりと溶けていく。
「兄さん、行こう。“次の星図”へ」
「うん、行こう。俺たちの記録を、続けるために」
星の海を越え、俺たちは新たな世界へと一歩を踏み出した。
境界を越える前には、かつてそこを越えられなかった者の影がありました。
でも詩音と瑠璃は、“記録する意志”を持って進んでいきます。
この19話で第2部もいよいよ終盤――
次回第20話では、ついに「転移座標、確定」という節目を迎えます。
物語が異世界へと本格的に開かれていく瞬間を、ぜひお楽しみに。




