【第15話】記憶の裂け目
記憶は、いつも確かなものとは限りません。
兄・詩音の視点を通して、「忘れたはずの過去」が揺らぎはじめます。
瑠璃の持ち帰った一枚の写真が、その裂け目を開く鍵となり……
今回の物語では、「記憶」と「星図」が繋がりはじめる瞬間を描きました。
それは、ふとした瞬間に訪れた。
いつもの通学路。駅前の交差点を渡ろうとしたとき、不意に目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
気がつくと、俺は――見知らぬ“空白の街”の中に立っていた。
「ここは……?」
音がなかった。風も、車の音も、通行人の気配さえも。
モノクロームに塗られたような世界に、俺ひとりがぽつんと立っている。
けれど、その景色には、妙な既視感があった。
この街を、どこかで“知っている”気がする。いや、“昔、いた”のか?
「詩音くん……?」
背後から聞こえた声に、振り向いた。
そこに立っていたのは、瑠璃ではなかった。
記憶の底に沈んでいた、もうひとりの“妹”――いや、“瑠璃に似た誰か”。
その存在が、俺の中の何かを強く揺さぶった。
「君は……だれ……?」
喉が乾き、声がうまく出なかった。
彼女は微笑み、静かに言った。
「私は、忘れられた記憶。あなたが消した、もうひとつの過去よ」
忘れられた記憶――その言葉が、胸の奥で何かをかき乱す。
否定しようとした瞬間、頭の奥に鋭い痛みが走った。
(この感覚……前にもあった?)
景色が一瞬、ざらついた映像のように乱れた。
交差点、夕暮れ、ふたつの影――それは、たしかに俺と誰かの記憶だ。
「思い出して。あなたが見ないようにしてきた、その時間を」
彼女の声が響くたびに、視界の向こうに歪んだ風景が次々と現れる。
どれも見覚えがあるようでいて、何かが足りない。
まるで、“俺だけが忘れている”ピースが、空白として浮かび上がっている。
「どうして……忘れたんだ?」
声にならない問いが、喉の奥でうずく。
彼女はゆっくりとこちらに歩み寄ると、俺の手を取った。
その瞬間、世界が反転した。
重力が逆転したように、空と地面がひっくり返り、俺の身体がふわりと浮かび上がる。
そして、黒い星図の断片が、空中に散るように舞った。
星図の断片――それは、明らかに今まで見たどれとも違っていた。
配置も形も、記号のような図形も、まるで異質な構造をしている。
「これは……俺が見ていた星図じゃない」
そのことに気づいた瞬間、心の奥がざわついた。
俺の見てきた星図は、瑠璃の瞳に宿るもの。
でも今、目の前に浮かぶこれは……“もうひとつの星図”。
「あなたが忘れたすべてが、この図に記されているの」
彼女の声が静かに告げた。
星図のひとつひとつの点が、まるで記憶の粒のように輝いていた。
それは俺の中にある、もうひとつの空白。
瑠璃が“唯一の妹”であることを、俺が信じて疑わなかったその裏で、
消えてしまった誰かの記憶が、確かに存在していたのだ。
「忘れたくて、忘れたわけじゃなかったんだ……」
思わずそう呟いたとき、視界がゆっくりと元の世界へ戻っていった。
目を覚ましたとき、俺はベッドの上にいた。
天井のシミも、窓から差し込む朝の光も、いつもの自分の部屋だった。
けれど、確かに“あの場所”にいた感覚は、まだ身体に残っている。
指先には、あの少女のぬくもりが残っていた。
夢ではない――そう思った。
「詩音、起きてる?」
ノックの音とともに、瑠璃の声がした。
返事をして扉を開けると、彼女はすぐに俺の顔を見て、眉を寄せた。
「……変な夢、見た?」
ドキリとする。まるで読まれているかのように。
俺が黙っていると、瑠璃はおもむろに、小さな紙片を差し出した。
それは、一枚の古びた写真だった。
写っているのは、小さな公園。そこに立つ、二人の子どもの姿。
「この写真、机の引き出しから出てきたの。見覚えある?」
俺は、息を呑んだ。
写っているのは俺と、もうひとり――瑠璃ではない、けれどよく似た女の子だった。
「……誰だ、この子……」
そう呟いた自分の声が、耳の奥で鈍く響く。
だが、写真の中の女の子の笑顔には、確かな懐かしさがあった。
「名前も思い出せないの?」
瑠璃の問いかけに、俺はただ首を振った。
そのとき、胸の奥がじんと熱くなった。
何か大切なものを、ずっと長い間忘れていた――そんな確信があった。
「……この子は、瑠璃じゃない。でも、どこかで見たことがある」
写真の背景、公園の遊具、夏の光。
断片的な映像が、パズルのように脳裏に浮かび上がる。
だが、それはどうしても“今の記憶”とはつながらない。
「私、知らないはずなのに、見た瞬間、すごく胸が痛くなったの」
瑠璃がそう言って、写真の子に指を重ねた。
その瞬間、視界が一瞬だけ白く染まり、かすかに風が吹いたような気がした。
「兄さん……この子、もしかして……私たちの記憶の外に、いる?」
「そんなの、あるわけ……」
言いかけて、俺は言葉を失った。
記憶の外――それはつまり、この世界に存在していたはずなのに、
今は誰にも覚えられていない“何か”のこと。
星図にあった“未知の座標”と、記憶にぽっかり空いたこの違和感。
それらがまるで、一本の線で繋がりはじめていた。
「もうひとつの記憶……星図の裏にあったもの……」
俺は思い出す。
昨夜見た、もうひとつの星図。あれに刻まれていたのは、消された記憶の星たちだった。
「兄さん……もし、私たちの記憶に“裂け目”があるとしたら」
瑠璃が言う。
「そこから何かが、こぼれ落ちてるのかもしれない。ねえ、もう一度、星図を――」
彼女の声が言い終わる前に、俺たちのまわりの空気がぴんと張り詰めた。
そして、天井にあったはずの空間が、静かに開いていった。
天井が開く――そんなはずのない現象を、俺たちは現実として見ていた。
光が、ゆっくりと室内に流れ込んでくる。
それは自然光ではなかった。どこか青白く、静かで、星のように瞬いていた。
「兄さん……あれ、星図じゃない?」
瑠璃が天井を見上げてつぶやく。
確かに、浮かび上がったその光の群れは、まるで空間に描かれた星図のようだった。
ただし、それはこれまで見てきた星図とは違った。
座標は歪み、いびつな軌道を描いている。いくつかの星は、途切れ途切れに揺れていた。
「これは……破れた星図?」
言葉にした瞬間、視界が一気に歪んだ。
俺と瑠璃は、ふたたび重力のない空間に放り出された。
さっきまで部屋だった場所はもうなく、代わりにそこには“裂けた記憶の空”が広がっていた。
浮かんでいるのは、星ではなく“過去の断片”。
誰かの声、笑顔、泣き顔――そのすべてが、星図のように漂っている。
「これ……全部、誰かが忘れた記憶なの?」
瑠璃がつぶやくように言った。
その声は、記憶の空に染みこむように静かに響いた。
「わからない。でも……その中に、俺たちが知らない“何か”があるのは確かだ」
断片のひとつが、俺の前にふわりと浮かんだ。
それは、小さな木製のブローチ。ひまわりの模様が彫られていた。
(見たことがある……)
脳裏に一瞬、夏の日の風景がよぎる。
麦わら帽子、笑い声、誰かと手をつないだ感覚――
だが、思い出そうとするたびに、その輪郭はかき消されていく。
「兄さん……あのブローチ、たぶんこの写真の子の……」
瑠璃が持っていた写真と記憶が重なった。
星図の中に混じったその断片は、確かに彼女のものだったのかもしれない。
「もしかすると……この星図、“あの子”が記録した記憶なのかも」
そう、瑠璃が言ったとき、記憶の空がひときわ強く光った。
そこに、ひとつのメッセージが浮かび上がった。
『観測者へ――記録を、託します』
「観測者……」
俺はその言葉をつぶやいた。
そう、今まで“見ることしかできなかった”星図に、何かを“託される”ということ。
それは、単なる観測者ではなく、“継承者”として選ばれたことを意味していた。
「兄さん、これって……星図が、意志を持ってるってこと?」
瑠璃の問いに、俺は小さくうなずいた。
言葉にできない確信が、胸の奥で脈打っていた。
星図はただの地図なんかじゃない。
それは、誰かの記憶であり、意志であり、残された願いだ。
そして――その願いが、今、俺たちに託されようとしている。
「この裂け目の向こうに、星図の真実があるのかもしれない」
そう言ったとき、視界がゆっくりと閉じ、
再び俺たちは静かな自室の天井を見上げていた。
だが確かに、あの裂け目の記憶は残っていた。
次に進むべき星図の座標が、瞼の裏に刻まれていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第15話では、星図が「誰かの記憶を記す媒体」である可能性を提示し、
詩音と瑠璃が“今の現実”に潜む違和感へと一歩踏み出す回になりました。
謎の少女、“もうひとつの妹”、そして星図からの「託宣」。
次回、第16話「星図の継承者」では、さらに星図の本質へと迫っていきます。
引き続き、お付き合いいただけたら嬉しいです。




