【第1話】星図は瞳の奥に
これは、妹の瞳にだけ現れた“もうひとつの空”の物語。
目に映るのに、誰にも見えない。
見えたのは、兄である僕――詩音だけだった。
現実の隙間に現れた小さな異変が、やがて世界の秘密へとつながっていく。
第一話「星図は瞳の奥に」、どうぞお楽しみください。
妹の瞳に、最初に異変が現れたのは、たしか初夏の終わりだった。
その日、瑠璃は珍しく静かだった。夕食の時間になっても口数が少なく、俺が「どうした?」と声をかけると、小さく首を振るだけだった。
「なんでもないよ」
その言葉を信じたわけじゃない。俺は昔から、瑠璃の声や目の動きで、だいたい何を考えてるか分かった。けれど、その日は違った。目の奥が、どこか遠くを見つめているような……そんな感じがしたんだ。
翌朝、俺は目を覚ましてすぐ、違和感に気づいた。カーテンの隙間から差し込む朝日が、なぜか青白く見えた。眠気でぼんやりしていたせいだと思っていたけど、居間に行って、妹の顔を見た瞬間、その理由がわかった。
――妹の瞳の奥に、星が浮かんでいた。
金色でも銀色でもない、淡く白い光を放つ小さな点が、彼女の瞳の中に広がっていた。目の模様に溶け込むように、まるで夜空のような点の集まりがそこにあった。
「瑠璃、おまえ……」
俺がそう言うと、瑠璃は一瞬きょとんとした顔をしたあと、鏡の前に立った。
「……これ、見えるの?」
その言葉に、俺の中にひやりとしたものが走った。
「“見えるの?”って、おまえ、自分じゃ……」
「うん。見えない。鏡を見ても、ただの瞳。でも、そこに“何か”があるって感じはするの」
鏡に映った自分の目をじっと見つめる瑠璃。その横顔は、なぜか少しだけ、大人びて見えた。
俺は、慌ててスマホのカメラを起動して、妹の目を撮影しようとした。しかし、画面には何も映らなかった。まるで、その光だけが“この世界の物じゃない”みたいに。
「見えるのは……俺だけなのか?」
「たぶん、そうかも。でも、怖くはないよ。むしろ、ずっと前からそこにあった気がするの」
不思議なことを、あたりまえみたいに言う瑠璃。けれど、俺はその言葉に嘘がないと感じた。
それからというもの、妹の瞳に浮かぶ“星”は、日ごとに少しずつ形を変えていった。
それはただの点ではなく、やがて線になり、星座のような模様を描き始めた。
夜、部屋の明かりを消して、窓からの月明かりだけにして見ると、それは特にはっきりと浮かび上がる。俺は思わず、ノートを取り出して、その模様をスケッチした。
「何をしてるの?」
ベッドに座ったまま、瑠璃が小さな声で聞いてくる。
「記録してるんだ。この星……いや、“星図”は、ただの模様じゃない気がする。意味がある」
「ふーん……お兄ちゃんって、意外とマメなんだね」
「バカにすんなよ」
そう言いつつも、俺は鉛筆を走らせる手を止めなかった。
気づいたのは、その星図がどこか見覚えのある形をしているということだった。けれど、それはどの天文図にも載っていない。北斗七星にも、オリオン座にも似ていない。どこか歪で、でもどこか整っているような形。
まるで、“地球の星空じゃない”ような――そんな感じがした。
日が経つにつれて、俺の中にはある確信が生まれていった。これは偶然でも、幻想でもない。妹の中に、何かが宿っている。
ある晩、俺は夢を見た。
瑠璃の瞳に浮かぶ星図と、まったく同じ模様が、夜空いっぱいに広がっていた夢。俺はその中にいて、見たこともない空を見上げていた。風景も、空気も、なにもかもがこの世界のものじゃないと、なぜかはっきりわかった。
目覚めたとき、心臓がまだ高鳴っていた。
妹を見ると、彼女はすでに起きていて、窓の外をじっと見ていた。
「……行ってみたいな。あの空の場所に」
小さくつぶやいたその言葉に、俺は返す言葉がなかった。
それが、すべての始まりだった。
夏休みが終わり、学校が始まっても、俺の中で“星図のこと”は日々大きくなっていった。
誰にも話せない。でも忘れられない。俺だけが見えていて、俺だけが知っているという、この奇妙な感覚。
星図は変化し続けていた。線が増え、点が増え、そして模様が動いているように見える瞬間があった。まるで、時間とともに更新されているように。
ある日、ふと思いついて、星図の模様を日付ごとに描いてみた。すると、気づいたんだ。星図が“動いている”ってことに。
動きの方向、角度、明滅の順番――それらをノートに記録していくうちに、星図がひとつの“地図”になっている可能性に気づいた。けれど、それがどこの地図なのかはわからない。少なくとも、Googleマップで探せるような場所ではなかった。
その夜、妹がぽつりと口にした。
「ねえ、詩音。私の中に、誰かがいるって思ったことある?」
俺は言葉に詰まった。
「……どういう意味だ?」
「私の中に浮かぶ星たちが、まるで“語りかけてくる”みたいに感じるの。でも、声じゃないの。ただ、何かを伝えようとしてるってわかるの」
それは、あの夢で感じた感覚と同じだった。言葉じゃない意思。記録され、伝えられる何か。
「それって……」
「うん。私の中に、“記録”がある気がする。そして、それを“読める”のは……お兄ちゃんだけなんだと思う」
静かな声だった。
でも、その言葉は、胸の奥に深く突き刺さった。
俺たちが見つめているのは、ただの不思議な現象なんかじゃない。もっと大きな、“何か”の始まりなのだと、俺はそのとき、はっきりと悟った。
そして心に誓った。
――この星図が導く先まで、必ず一緒に辿り着こう、と。
週末の夜、俺はいつものように星図を写していた。静かな部屋の中、鉛筆の音だけが響いている。
「お兄ちゃん、もう寝ないの?」
ドアの隙間から顔をのぞかせた瑠璃の声に、俺は少しだけ肩をすくめた。
「もうちょっとだけ。これ、すごく重要な部分なんだ」
「ふうん……。じゃあ、これあげる」
そう言って、彼女は一枚の紙を俺の机に置いた。そこには、子どもが描いたような丸や線、星がたくさん描かれていた。
「夢で見たの。昨日の夜。空の中に、星たちが動いてた。点と点がつながって……それが地図みたいだったの」
「これ、夢の中の星図……?」
「うん。でも、不思議なんだよ。見たことない空なのに、なんだか“懐かしい”って思ったの。変だよね?」
俺はその絵を見つめながら、胸がざわつくのを感じていた。妹と同じ夢を、俺もどこかで見たような気がする。あるいは、これから“見る”ことになるのかもしれない。
俺たち兄妹の間で、何かが始まっている。そう感じずにはいられなかった。
次の日、図書館で星座の専門書を調べていたときのことだ。ふと通りがかった年配の司書が、俺の描いた星図のコピーをちらりと見て、立ち止まった。
「……これは、君が描いたのかい?」
「あ、はい。妹の瞳に浮かんでる星の模様で……」
そう言ってから、しまったと思った。けれど、その人は真剣な目で言った。
「こんな星座、私は見たことがない。でも……これは、ただの空想とは思えない。どこか、記録としての意味を持っている。そういう“意志”を感じるよ」
「意志……?」
「星が語ることもある。誰かに、何かを伝えるために」
その言葉は、心のどこかに深く沈み込んだ。まるで、あの星図そのものが、ずっと前から“誰か”に向けて放たれていた記録のように。
俺はページをめくる手を止め、もう一度強く思った。
――この星図が何を伝えようとしているのか、それを俺が読み解くんだ。
その夜、空を見上げながら、俺はつぶやいた。
「瑠璃……おまえは、何を見ているんだろうな」
隣に立つ妹は、風に揺れる髪を押さえながら、まっすぐ空を見ていた。
「まだ、わからない。でも、きっと近づいてる。少しずつ……この世界じゃない“どこか”に」
その言葉に、俺は静かにうなずいた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、妹・瑠璃の瞳に現れた“星図”との出会いを描きました。
星のような点が、やがて線となり、地図のような意味を持ち始める――
この世界の常識を少しずつ超えていく第一歩です。
次回、第2話「動き出す光」では、この星図にさらなる変化が訪れます。
どうぞ次回もよろしくお願いいたします。