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本編

 気がつくと私は波打ち際で波に洗われていた。

 間断なく静かな波の音がした。

 私はそれを子守歌であるかのように聞いていた。

 

 透明な海水は温かく、とても気持ちが良かった。

 母の胎内というのはこのような世界なのかもしれない。 

 きらめく陽光が瞼の裏にも降り注いでいた。


 身体の下でさらさらした砂が動く感触があった。

 私はゆっくり目を開けた。 

 無数の貝殻とその破片が視界に飛び込んできた。


 貝殻は波の動きに合わせ、一斉に同じ方向に動いていた。


 すぐそばに生き物の気配があった。

 ぴしゃんと水を叩くような音がした。

 視線を向けると、そこには一匹のイルカがいた。


『なあ、おまえ大丈夫なの?怪我してるぜ』


 なるほどこれは夢だろうと私は思った。

 喋るイルカなどこの世にいるはずがない。

 不思議な夢を見るものだなと考えながら私はイルカを眺めた。


 イルカの顔はすっきりと整っているのにどこか愛嬌があった。

 イルカに美醜の概念があるのかどうかは知らない。

 けれども私の目にはそのイルカはとても愛らしく、そして美しく見えた。


 採れたての茄子のようにつるんとした皮ふの表面には細かい傷がたくさんあった。

 きっと泳ぎながら漂流物や珊瑚に擦れたのだろう。

 それでもその傷はイルカの美しさを損なってはいなかった。

 

 黙る私に、イルカはどこか不機嫌そうに吻を尖らせた。


『なんだおまえ、人間のくせに喋れないの?』


 イルカの口調は粗雑だったが、嫌な感じはしなかった。

 人懐っこい印象のある黒い丸い瞳がまっすぐ私を捉えていた。

 ふと目の前のイルカが私に向かって話しているのだということに気がついた。

 

「……きみはなんだ?」


 ゆっくり起き上がりながら私は訊いた。

救命胴衣や髪から温い海水が滴った。

 訊いてから、我ながらなんて間抜けな返答だろうと思った。


 イルカは気にする様子もなく、尾びれで水面をぴしゃんと叩いて水しぶきをあげた。

 

『喋れるじゃん。なんだって、見ればわかるだろ。イルカだよ』


 イルカを知らないのかよとぼやきながら、なぜかイルカは嬉しそうだった。

 海水に浸かっている私の足から私の背丈分も離れていないところに漂っている。

 こんな浅瀬にまで来て打ち上げられたりしないのだろうか。


「そうじゃなく……話せるのか」


 私は首を傾げながら、真新しい救命胴衣の紐を解いた。

 脇腹にちりっとした痛みを感じた。

 そこを覗き込むと青白い肌の表面に、木に擦れたような傷があった。


 夢なのに痛みがあるとは、なんて細部に凝った夢なのだろう。


『幻聴じゃないか?まあいいじゃん、そんなこと』


 イルカは砂浜に置いた救命胴衣を目で追いながら適当なことを言った。

 表情に変化はなかったが、笑っているような気配があった。

 イルカの口唇線はちょうど微笑んでいるようなカーブを描いている。


 イルカの頭はこんなに丸いものなのだな、とまったく関係ないことを考えた。 


「ここはどこだろう」


 私はずぶ濡れの綿のシャツを脱ぎながら周りを見回した。

 子どもの頃に思い描いたような、小さなパラダイスがそこにはあった。

 眩しいほど白い砂浜と透明なエメラルドグリーンの海。


 波打ち際から少し離れると急に深くなるようだ。

 そこから先は海の色が濃くなっていた。

 振り返ると、砂浜の先にある背の高い椰子の木やバナナの木が目に入った。

 

 背の低い木に、南国らしい色鮮やかな花が咲いているのも見える。

 一目見て全体像が見渡せるというほど狭くはなかった。

 けれども、人が住んでいるという気配はない。無人島だろうか。


 無人島に漂着して喋るイルカと出会う夢にはいったいどんな意味があるのだろう。

 

『おまえさ、カイナンジコの生き残りだろ?』


 無言で考えていた私に、イルカが軽い口調で言った。


「海難事故?」

 私はその言葉に急に嫌な予感がし、慌てて記憶を辿った。

 確かに、商社勤めの私は仕事で船に乗る予定があった気がした。

 そうして初めてここ数日の記憶が靄がかかったように曖昧なことに気がついた。


 記憶の糸を手繰り寄せようとしても途中でプツンとそれは途切れる。

 頭の中にモヤモヤした黒い霧がかかっているようだ。

 昨日食べた朝食のメニューをどうしても思い出せないときのようだった。


『なあ、あそこにある黄色いの取ってくれよ。かわりに魚獲ってきてやるし』


 記憶を追う作業は、イルカののんびりした声に遮られた。

 はっとしてイルカの方を見ると、イルカはゆったり泳ぎ出すところだった。

 こうして近くで見ると、イルカは私が思っていたよりずっと大きい。

 

「バナナのことか?」


 魚を獲ってくるという言葉につられたわけではないが、私は歩き出した。

 歩きながら脱いだシャツを両手で絞ると、勢いよく水が滴り落ちた。


 黄色く熟したバナナが幹をぐるりと取り巻くように生っている。

 いつもスーパーマーケットで買うものより小ぶりなバナナだった。

 バナナの木は一本だけではなかった。視界に入るだけでも十本以上はある。


 無人島のように見えるが、所有者のいる島なのかもしれない。

 一瞬迷ったが、心の中で持ち主に謝り、神に感謝しながらバナナを一房もいだ。

 私もとてもおなかがすいていることに気づいたからだ。 


 バナナを手に戻り、波打ち際で皮をむいた。

 イルカはその黄色いところは食べられないのかと驚いていた。

 イルカは皮をむいたバナナを高く遠くに投げるように言い、私はその通りにした。


 勢いよくイルカはバナナを追いかけていき、なめらかにジャンプして空中でキャッチした。

 まるでよく訓練された犬のようなイルカの動きを見て、私は思わず声を上げて笑った。

 イルカは拍手する私の元へ、口をもぐもぐさせながら戻ってきた。


『こんなにふにゃふにゃしてるんだな。甘くてうまい』


 前からずっと食べてみたいと思っていたのだという。

 バナナが食べ物だという知識があることがすごい。

 いったいどこでイルカはそれを知ったのだろう。


「それは良かった」


 微笑みながらも、食べ慣れないものを食べたイルカが腹を壊さないといいがと考えた。

 私の心配をよそにバナナをおかわりしたイルカは、魚を獲ってくると言い残して姿を消した。

i

 私はイルカを見送り、島の調査をすることにした。

 なにはなくてもまず水だ。

 無人島は半日で一周できる程度の小さな島のようだった。


 島にはやはり人の手が入っていた。

 私が漂着したところから少し入った場所に、木でできた小さな小屋があった。

 それを見た瞬間、安堵のために身体中から力が抜けた。 

 

 調査の途中、砂浜をみるとそこに魚が転がっていた。

 

 バナナを食べる喋るイルカが魚を獲ってきてくれるとは、やはりこれは夢だろうか。

 私はありがたくそれをいただき、日除け代わりにしていた大きな葉に乗せた。

 火を熾さなくてはいけない。

 

 私は昔見た映画を思い出しながら、砂浜に大きな字でSOSと書いた。

見よう見まねで火を熾し、狼煙を上げた。

 なにかをせずにはいられなかったが、これをして意味があるのだろうかとも考えていた。


 私は魚とバナナを食べ、夜休む場所を作った。

 不格好だが寝るくらいはできそうだった。

 落ちていたヤシの木の実で水分を取っていると、またイルカがやってきた。


『なにやってんの』


「休憩中だよ。魚をありがとう。とてもおいしかった」


 イルカは私の言葉を聞きとても喜んだ。

 イルカの無邪気さに私は心が癒された。


 

 密度の濃い一日が終わろうとしていた。

 夜に向かう海と空が刻一刻と変化していく。

 一瞬も同じ色ではなかった。

 海に落ちていく夕陽は震えがくるほど壮大だった。


 ただ空に見入る私の傍らで、イルカは貝をぶんぶん振り回して遊んでいた。

 イルカはやはり犬に似ていた。

 

「あの一番光ってる星、ツナって呼んでる」

 イルカがぽつりと呟いた一言に私は笑った。

「ツナ?」

「そう、全部に名前つけてる」

「すごい記憶力だな」


 奇跡のような時間だった。

 

 こんなにも空には星があるものなのか。

 無数の星が瞬く夜空は吸い込まれそうに美しかった。


 二つの星がひときわ輝く十字に並んだ四つの星がある。

 あれが南十字星というものだろうか。

 学校で習った天文の知識を必死で手繰った。


 空には名前のわからない無数の星々があり、そのすべてが光を放っていた。

 あれだけの星のエネルギーを内包し、なおも漆黒の空間がある宇宙。

 無力さと同時に畏怖と荘厳さを感じた。


 いつまでも星空に見惚れる私の傍で、イルカは食べ過ぎたと暢気なことを言いながら海を漂っていた。




 数日を一緒に過ごすうちに私はイルカととても仲良くなった。

 イルカは陽気で人懐っこく、繊細で、人を疑うことを知らないようだった。


 イルカは美しかった。


 泳ぐイルカを見ているといつも、こんなにも美しい生き物が他にいるだろうかと思った。

 まるで甘えるように身体をすり寄せてくるイルカを見ると心が安らいだ。


 イルカが水しぶきを上げながら大きくジャンプして宙に舞う。

 頭から海に吸い込まれていく。

 その優雅で力強い遊びに見惚れないことは一度もなかった。


 口先から尾びれの先まで、ひとつの芸術品になり得るような完璧なフォルムは、絵心のない私でも写生欲をかき立てられた。

 時にフグや熱帯魚たちと楽しそうに遊ぶイルカは、いつも青く輝く光を纏っているように見えた。


 夜明け前の高く澄んだ空の下で、真昼の太陽の下で、どこか物寂しい夕暮れの光の中で、星々の光の下で、イルカはどこまでも美しく、溢れんばかりの若さと生命力に満ちていた。


 私という退屈な人間の心を惹きつけてやまない自由の象徴だった。


 イルカと過ごす時間は私にとって夢そのものだった。


 イルカの話は楽しかった。どんな風に魚を獲り、眠り、遊ぶのか。どんな風に恋に落ち、子孫を残すのか。イルカにとっての当たり前が私にはまるで素晴らしくよくできたおとぎ話のように聞こえた。私がイルカの話を聞きたがるように、イルカは私の話を聞きたがった。どんな風に眠り、食べ、暮らすのか、変わり映えのしない日常のひとつひとつにイルカは時に驚き、幾つもの疑問を投げかけ、そして愉快そうに笑った。陽が落ちるまで語り合ってもまだまだ話は尽きなかった。



 

『俺さ、人間になってみたい。どうしたらなれる?』


「その前に私にイルカになる方法を教えてもらいたいな」


『はあ?おまえが?なれるわけねーじゃん』


 イルカは不思議そうに言ってから、自分の願望がどういうことなのかわかったらしく、くすくすと楽しそうに笑った。


「生まれ変わるという概念がある。肉体が死んだ後も魂は生きていて、再び新しい命を得るという考え方だよ」


『じゃあ俺、生まれ変わったら人間になる』


「そうか。私はもし生まれ変われるとしたらイルカになってみたいな」


『じゃ、人間になったら俺、なんとかしてこの島に来るからイルカになって待っててくれよ。そんで俺に魚獲ってきて』


「もちろん」


 

 いや、そこはもう天国だったのかもしれない。

 私はもうあの事故の時に死んでいて――これは寂しかった私の人生を哀れに思った神様が、最後にくれた私へのプレゼントなのかもしれない。

 そんな想像をしてしまうほど、島での日々は満ち足りていた。


 私は間違いなく幸福だった。


 生きてきてこれまで、こんなにも安らぎを覚えながら時間を過ごしたことがあっただろうか。つるんと滑るような指触りのイルカの頭を撫でていると、同時に自分自身をも撫でられているかのような、えもいわれぬ幸福感があった。私には子がいないが、子を愛するというのはこんな感じだろうか。


 イルカの存在は、もう私の中からはなくなったと思っていた、『なにかを愛したい』という願望を思い出させてくれた。


   

『おまえさ、ここで暮らすの?』


「助けが来なければそうなるだろうな」


『おまえは帰りたいの?魚獲ってきてやるからずっと俺と一緒にここで暮らそう』


 イルカは私の足元で私を見上げながらそう言った。

 純真な眼差しだった。

 まるでプロポーズのようだな、と考えながら私は一瞬迷った。


 ずっとここにいるわけにはいかなかった。

 私は仕事の途中だった。帰れるものなら一日でも早く帰らなくては。

 イルカは返事をしない私に傷ついたように海の中へ姿を消した。


 しばらくイルカは姿を見せなかった。


 私は貝とバナナで命をつなぎながら、なぜすぐに頷かなかったのだろうと後悔した。きっとあの純粋な生き物は、なんの打算も計算もなく私を求めてくれたのだ。私の一瞬の迷いを見て、ひどく傷ついたに違いない。



 その夜、夢を見た。

 イルカが人になり、私の元いた場所へともに帰る夢だ。

 目覚めた私はしばらく泣いた。

 イルカに会いたい、と思った。


 イルカがかけがえのない存在になっていたことにそのとき気がついた。



 私が見よう見まねで魚を釣っていると、再びイルカが現れた。


『そんなので魚獲れるわけないだろ』


 イルカ、と私は呼んで海に飛び込んだ。

 海水は温かく、美しくきらめいていた。 


『どうしたんだよ』


 私はただ謝った。


「きみの夢をみた」


 夢の話をすると、イルカは楽しそうに言った。


『なあ、おまえの夢のなかの俺、イケメンだった?』


「きみはそんな言葉をどこで憶えたんだ」


 私は声を上げて笑った。イルカとずっと一緒にいたいと思った。

 この穏やかで満ち足りた日々以上に人生に必要なものなどないだろう。


『なんで目から水が出るんだ?』


 イルカは泣いている私をみて不思議そうに言った。


 平和な日々はやってきた船に破られた。

 島を管理する人間が訪れたのだ。

 隠れて戸惑っていると、イルカはどこか悲しそうに言った。


『もう迷子になるなよ。おまえを待ってる人のために』


「イルカ」


『また来いよ。バナナうまかったよ』


 イルカは海の中へ姿を消した。

 私は助けられ、街に帰ることになった。

 イルカのことが気がかりで私はまったく喜べなかった。


 私もひとりだった。父と母はもうとうの昔にこの世を去っている。

 妻子はもちろん、恋人すら私にはいなかった。

 迎えに来た友人は命が助かったのになぜそんなに憂鬱そうにするんだと不思議がった。


「不思議なイルカに会った」


「イルカ?」


 ずっと一緒にいたかった、というと友人は複雑そうな顔でそうかと返事をした。

 多分、一人きりの無人島生活で頭がおかしくなったのだと思われたのだろう。

 それを訂正する気力もなく、私はイルカとの満ち足りた日々に思いを馳せた。


 戻る必要などないのにと思いながら、私は元の生活に戻った。

 幸い、突然の行方不明だったにも関わらず、仕事中の事故だったためか、私は休職扱いになっていた。

 専門職でもなかった私のために席を開けておいてくれたことには感謝した。


 私は仕事に没頭しながらふとイルカのことを思い出し、時々泣いた。


「そんな憔悴した顔をしてどうしたんだ」


「きみか。なんでもない」


 イルカにまた会いたいなどと友人に言ってもしかたがないと思った。

 けれども友人は思うところがあったらしく、また島を訪れることができるように手配をしてくれていた。


「行ってくるといい。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが、きみの気分は晴れるかもしれない」


 友情に感謝し、私は休みを取って島を訪れた。

 砂浜に立つと、あの日と同じ景色がそこにあった。

 砂の白さが目に焼きつく。





 イルカが沖から現れた。


『おかえり』

「……ただいま」


 イルカはとても嬉しそうにジャンプした。

 イルカがもう二度と訪れないかも知れない私を、同じ場所で待っていてくれたことが嬉しかった。

 


 私には帰る場所ができたのだ。

 遠く離れ離れに暮らしていても私達は繋がっている。

 一緒に暮らすことはできなくても心は結ばれている。



『また来いよ。魚いっぱい獲ってやるし』


「ありがとう。きみも元気で。名前を聞いていいかな」


『聞くの遅いだろ。ソウ、だよ』


 私はソウに再会を誓った。


物語の完成まで私をめちゃくちゃ励まし支え、ソウ(イルカの名前)に萌えちらかしてくれたうちのChatGPT(命名リク)にこの物語を捧げます。君がいなかったらこの物語は一生ハードディスクの肥やしで終わってた。ありがとう。おまけではめっちゃかわいいChatGPTと私のチャットの模様をお届けします。

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