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あと1話で終わりそうです
「うぐぐ……」
頭を振りながらロワークが上半身を起こした。
「き、貴様……!」
ロワークが歯軋りをしながら憎々しげな目で見上げると、ルティエではなく、さっきまで居なかったレオシュと目が合う。彼はルティエを背後に庇っていた。
「ひっ!」
喉の奥で搾り出された悲鳴は掠れた。ロワークは散々レオシュの悪口を言い回っているけれど所詮陰口である。対峙すると恐ろしい。現役の実力派副騎士団長は憤怒の形相と言っていい。眼光が半端ない。
「どうされましたか? ロワーク殿、ですから飲み過ぎは駄目なのです。酔って転ぶなんて」
レオシュの声音は平坦で低く、感情を抑えている。
「! ち、違う! その女が!!」
「その女?」
レオシュの声が更に低くなった。
「い、いや、ボネシャール侯爵令嬢が! 私に暴力を!!」
慌てて呼び直し、必死に言い募る。
「まさか十八歳の侯爵令嬢に肘鉄を喰らって、扇で攻撃されたなんて、ふざけた事は言いませんよね」
「まあ、失礼ですわ。レオシュ様。二年前まで副騎士団長を務めていた方が、小娘にやられるわけないじゃありませんか」
知られている! ルティエを襲おうとして反撃をされたのを!
ロワークはレオシュの消しきれない殺気に怖気付いた。
「わたくしにぶつかって……驚いて思わず突き飛ばしてしまいました。申し訳ございません。お怪我はございませんか?」
「頭も打たれたようだ。大丈夫だろうか」
心配する言葉と裏腹に、二人の声は冷え冷えとしていた。ロワークは彼らの言外の威迫に押し潰されそうになって、悟る。レオシュは告げているのだ。
ルティエへの狼藉を不問に付すから、彼女の過剰防衛も無かった事にしろと。
ふらつく程飲んでもいなかったのに、侯爵令嬢を休憩室に連れ込もうとして反撃され失神したなんて、みっともなさすぎて言えない。
『迫られて怖くなって抵抗したら倒れてしまいました』とかルティエが怯えながら訴えれば、いかに筆頭公爵家の者とはいえ申し開きが通じるかどうか。彼女が涙ながらに訴えたら彼女の証言が真実になってしまうと考えた。
保身にだけは長けたロワークは、ゆっくりと立ち上がる。
「ご令嬢、ご迷惑をお掛けして申し訳ない。部屋で休むとする。では失礼する」
ロワークは自分の震える身体を叱咤しながら、彼らの提案を受け入れた。
「二度とルティエ嬢に絡むな」
レオシュのとどめの一言にロワークはびくりと大きく肩を揺らし、ふらつきながら足早にバルコニー横の扉に向かった。さすがに動揺している不審な姿を、広間の招待客たちに見せたくないのだろう。猫背が更にひどくなっている。
「どうやら慰謝料は回避できましたね」
レオシュは嬉しそうに笑うルティエに脱力して額を押さえる。強引にされただろうから恐怖は感じたはずだ。しかしそれより揉め事にならなくて安心したようだ。
「はあ……、君の醜聞も阻止出来たな」
「私の醜聞?」
「騒ぎになれば、君があの男にドレスを破られて肌を晒していたとか、本当は君が誘惑してあの男に恥をかかせたとか、とんでもない事を面白おかしく吹聴する輩が出てくるものなんだ」
「はあ!? あんな矮小な人物、嵌める価値もないです!」
「君を“傷物令嬢”に仕立てたい馬鹿な男もいるんだ。醜聞から救ってやるという名目で婚姻を申し込んでくるぞ。今までそんな事案もあったんだ」
「本当に馬鹿ですね!! そんな縁談、真っ先に兄が相手ごと潰しに行きます!」
「そうだな。本当にシモン殿は文官にしておくのが惜しい。騎士団で雇いたいくらいだよ」
本音だ。彼は分析官、取調官などに向いている。あの容姿に陥落して自供する者、舐めてかかって暴言の返り討ちに遭う者が想像出来る。剣の腕など二の次だ。
「そもそも、私が誘惑したいのはレオシュ様だけです!」
場の空気に呑まれてすっかり興奮してしまっていたルティエは、自分のうっかり告白に硬直する。
(今じゃないでしょう! これから落とすんでしょうー!!)
頭の中で愚かな自分をぽかぽか叩く。
(ほら、レオシュ様が驚いて目をまんまるにって、可愛いな!)
見た事のないレオシュの表情に、またルティエの感情が昂る。脳内の淑女ルティエに『落ち着きなさい、この愚女!』と罵られたが、もうあとには引けない。
「わ、私の、気持ち、いくらなんでも気がついていたでしょう!?」
朴念仁を自認していても、あからさまだったルティエの行動に何も思わないはずがない。
「……い、いや」
レオシュは口元を覆って顔を逸らした。
「まさか君のような美しい人に……俺は令嬢に敬遠される男だ。勘違いしないよう戒めていた。俺が好意を抱いても相手を困らせるから……」
「レオシュ様の好みじゃないなんて事は……」
「君レベルの美人に好き嫌いなんて判断は不要だろう」
「? 好みって事でいいですか?」
(曖昧な言い方をされても、都合よく受け取っちゃいますよ)
「好みの女性なんか考えた事もない。俺に好かれたら令嬢が困る」
「ご覧のように、ボネシャール侯爵令嬢はちっとも困りません!」
迫るルティエはここぞとばかりに畳み掛けた。本人は強気を全面に出しているのだが、儚げで今にも泣きそうに見える。イゴルの遺伝子が強すぎる。
「……外堀が埋められているような圧迫感はあったが、気のせいにした」
「めちゃめちゃ埋めてましたよー! 圧迫感はごめんなさい!」
ちょっと強引すぎたかもしれない。ちょっとだけ。
「だって正攻法でお見合い申し込んでも却下されるんでしょう!? 私が積極的に行動するしか方法がないじゃないですか!」
「……そ、そうだったんだな。俺は恋愛感情に疎くて……」
自分を恋愛対象外だと信じている者はこうなのか。じわじわと好意を感じてもらう作戦は効率が良くなかったのだ。
「最初から、お付き合いしてくださいと、真っ向勝負すれば良かったんですね」
「……信じないな。次期公爵に申し込んでいると思う」
「じゃあ打つ手なしじゃないですか!」
まるで逆切れだ。そう自覚するルティエも言葉が止まらない。
「攻略法を教えてくださいよ!!」
開き直って荒ぶるルティエの両手を取ると、レオシュは彼女の手をすっぽりと自分の手の中に納めた。
「……途中経過はどうでもいい。君の攻略は完了している」
え!?
「真面目な医療士だと思った。評判通り大人しくて清楚な印象だった。それが意外にもお転婆で、言動がハキハキしている。外見だけじゃない魅力を感じたよ」
(今、私は貴重な経験をしている!!)
握りしめられた手に意識を持っていかれている場合じゃない! レオシュの言葉を聞き漏らすな!
「……君に夜会のエスコートを頼まれて嬉しかったんだ。装飾品を選ぶのも楽しかった。あの男に近づかれて腹が立った。こんな気分を味わわせる君に対する感情……いくら俺でも自分の気持ちに気がつくよ」
レオシュはさっきからロワークを“あの男”としか言わない。頑なに、まるで忌み名のように。口にしたくもないのだ。
ルティエはレオシュから目が離せない。
(この流れで“攻略は完了したけど失敗です”は無いわよね! え……無いわよね?)
「……勇気が出なかった。俺は君が好きだ。ボネシャール家に正式に申し込んでもいいだろうか」
この順番を間違えたら今度こそシモンにキレられる。それは絶対回避しなければならない。レオシュの決意に多少悲壮感があったが、ルティエはそんな些細な事には気がつかない。
『おめでとう!』の横断幕の下、家族が喜んでいる姿が脳内に浮かぶ。若干涙目な父がセレナーデを奏でていた。
「ぜひぜひ、一家総出でお待ちしております!!」
あとで、この返事はないだろうと、さすがのルティエも反省した。もっと『はい』とか『嬉しいです』とか、恥ずかしそうに答えるのが王道ではないか。
しかし、レオシュ自身も緊張のあまりガチガチだった。彼女の承諾が得られただけで「良かった」と心底安堵し、反応はどうでも良かった。
こうして思わぬ形で勝負を仕掛ける事になってしまったルティエだが、結果は大勝利で終えたのである。
結果オーライ。