15
「ルティエ嬢、副騎士団長と一緒ではないのかな」
(気安く名前を呼ぶんじゃないわよ!)
ロワークはまだ三十代半ばなはずなのに、イゴルより老けて見える。不摂生な生活がだらしなく見せるのだろう。
イゴルは美容に気をつけている。“美しい楽士”を保つ努力だと思われているが、主な理由は、ずっとアガータの好みであろうとしているからだ。
そんなに母が好きなら『浮気なんてするな』と叫びたいが、下半身は別の生き物らしい。
下半身が緩いのは目の前の男も同じだ。嫁にはとっくに愛想を尽かされて、夫人は子供を連れて絶賛別居中だ。
それをいい事に本邸にアトリエや稽古場を作り、パトロンをしている女性たちを泊まらせている。まあ結局は金で得た愛人だ。そこは、女性に勝手に貢がれるイゴルとは大違いである。
「レオシュ様は所用で抜けています。もうすぐ戻ると思いますわ」
「ちょっと酔いを覚ましに来ただけだが君がいるとは、これは運命かな」
「ぜっっったいにあり得ませんので、お引き取りを」
聞こえない程度に呟いた。無表情に徹するルティエをロワークは更に口説く。
「君は本当に美しい。あんな卑怯な男には勿体無い」
「卑怯とは?」
賛辞には“ありがとうございます”くらい言うのが礼儀だが、それは言いたくないし、どうでもいい。
(レオシュ様が卑怯って、まさかベネチェクト公爵家のコネで副騎士団長になったって本気で思ってるの?)
「知っているかね? あいつは私を蹴り落として副騎士団長になったのだよ」
(本気で言ってるのね! 客観的に自分を見られないお馬鹿さんなんだ!)
「私が聞いているお話と違うようですわ」
「あの男が都合のいい事を君に吹き込んだのだろう」
「いいえ、レオシュ様の口からあなたのお名前を聞いた事なんかありません。私が聞き及んだのは文官の兄からですわ」
「うわさは当てにならないものだよ、ルティエ嬢」
レオシュがロワークを歯牙にも掛けないのと、シモン経由で正しい情報を得ていると、親切に教えたのに伝わらなかった。
(話、聞かない男ね! てか、名前を呼ぶなっつーの)
「贅沢をしたいのなら、私でもいいだろう?」
(は? 頭湧いてんの?)
「まあ、ご冗談を。奥様も愛人もいらっしゃるのに」
こいつは一応、王弟の息子。腹が立っても我慢する。
「妻とは離婚する! 妻は君の母親のように寛大じゃないんだ。君は理解があるからパトロン活動を許すだろう? 若くて綺麗で愛人にも理解がある、君は理想だ! 不器量でつまらんレオシュなんかより、私の方が君を満足させてやれる!」
(私が若くて綺麗って以外、何一つ事実が無い!)
「うちは母が離婚してもいいと告げても、女性関係で揉める度、父が捨てないでと縋って許してもらっているんです。私が贅沢を望み愛人に寛容だなんてどうして思うのですか?」
我慢できずに一気に反論するルティエだが、一番許せないのは。
「レオシュ様のどこが不器量なんですか!? あの精悍な顔立ち、惚れ惚れします! 無愛想なのは認めますが、たまにちょっと笑ったり照れたりするところもまた素敵なんです!」
ここぞとばかりに惚気てやる。家族以外に出来ないから。
「……女が反論だなんて、可愛げが無い」
「これが侯爵家の娘で、王宮医療士のルティエ・ボネシャールですよ」
お前が好む淑女なんて、ただお前に都合のいい女だ。こちとらそんなものにちっとも掠っちゃいない。
「だが私はそんな女が嫌いじゃない。生意気な女を組み敷くのは大好きだ」
ロワークがにやりと笑う。
「知ってるかな? このバルコニーからも休憩室に行けるのだよ。人目に付かずにな」
ロワークがいきなりルティエの腕を掴んで、バルコニーの横の扉に引っ張って行こうとする。迎賓館の奥に連れ込まれるのだと察したルティエは当然暴れる。
「やめてください!」
「黙れ! さっさと来い!」
ルティエの何やら興奮した声が聞こえる。それに男の声。
それに気がついたレオシュは全力で駆ける。こうした公式の祝いの夜会になれば、挨拶回りや歓談に時間が割かれるので、バルコニーに出る者は少ない。それこそ人や酒に酔った者が気分転換するくらいだ。それすら、夜は少し肌寒くなった今の時期なら部屋を利用する方が多い。
やはり彼女を家族のもとに送り届けるべきだったのだ。
『やめてください!』
『黙れ、さっさと来い!』
ルティエの声に重なる怒号。
「ルティエ嬢!!」
自分の声が暴漢の抑止力になるようにレオシュは叫ぶ。
レオシュは走った勢いのまま壁を蹴ってバルコニーの欄干に掴まると、反動と腕の筋力だけでよじ登る。
「ぐわっ!!」
男の潰れた声がした。
バルコニーに立ち降りたレオシュが見たものは、みっともなく転がっているロワークだった。
「お帰りなさい、レオシュ様!」
何事も無かったかのように近寄るルティエの手元を見る。
「……それは何かな」
「貴婦人の必需品、見ての通り、扇ですわ」
「持ってなかったよな。それに……それ、鉄扇だね」
異国の武器だ。帯剣が許されない場で、自衛のため懐に忍ばせていると聞く。ボネシャール家が本気の護身術を娘に施しているとはっきりと分かる。
「まあ、うふふ」
上品に扇を開いて令嬢仕草をしても、副騎士団長は誤魔化されてくれない。
「武器の持ち込みは禁止だ……と言っても扇だから見過ごされたのか。どこに隠していた」
踊っている時は気が付かなかった。閉じたお飾り扇を胸元に差し込んで、それを男性に抜かせる女性は今まで何度も見た。あれは女性からのお誘いの合図らしい。
特にルティエの胸元を注視したわけではないけれど、見下ろす位置にあったのだ。扇があれば当然気がつく。
「まあ、レオシュ様、淑女の隠し場所など詮索するものではありませんわ」
言っていた隠しポケットか。
「……どこを攻撃した? ずいぶん苦しんでいるようだが」
レオシュはロワークを睥睨しただけで助けようともしない。ルティエによからぬ事をしたのは確実だ。本当は無様な男に蹴りを入れたいくらいだが、ルティエが充分制裁を加えているので自重する。
「……みぞおちへの肘鉄を少々」
「鉄扇の使用は?」
「……肋骨を突いて、頭を叩きました。軽めにですよ?」
「他は?」
「こっちに倒れてきたので、突き飛ばしたら転びました」
「なるほど」
「私は襲われて休憩室に連れて行かれそうになった被害者です。レオシュ様は心配もしてくれないのですね!」
尋問されている気がするルティエは文句を言う。今日だけでもパートナーなのだ。大丈夫かの一言が欲しかった。
「そんなわけあるか!!」
レオシュはつい怒鳴ってしまった。慌てて戻ってきたのに、状況はこれである。
「心配に決まっているだろう!!」
悠然と立つルティエの姿に心底ほっとした。ルティエにかすり傷一つでもあったら、彼女をバルコニーに一人残した自分を許せないところだった。
「君は一人で暴漢を撃退した。経緯を調べるのは職業柄仕方がないんだ。許せ」
“悪かった”は謝罪じゃないとラウラが言った。
では“許せ”は? レオシュが謝罪の意味で言っているのは間違いない。
(命令だよね、上からの。ええ、次期公爵なんだから身分も上なんだけど)
ルティエはレオシュを見上げる。彼は毅然とした態度を保ったままだ。
「“許せ”とは? これって私があなたを許す事態じゃないですよね」
急に冷静になったルティエにレオシュの瞳が揺れる。これはルティエに対する私情が、彼を揺さぶった反応だ。
「偉そうですまないが、こいつの出方次第では慰謝料云々の話になるかもしれない。状況は正確に把握しておきたいんだ」
(ふふっ、“すまない”のね、あなたはいつも)
謝罪の受け取りも結局は、相手の態度と相手に対する感情の問題だ。
ちょっと困ったような顔で、ルティエの機嫌を窺うように見てくる彼はとても珍しいけれど、それに優越感を覚えるほどルティエの性格は悪くない。
「……か、かわっ」
(可愛いー! 私のレオシュ様、今日も好きー!)
「かわ?」
「……い、いえ、なんでもありません」
鉄扇でにやける口元を隠す。淑女は扇をこう使うのだとルティエは学習した。
「許します、副騎士団長様」
騎士の立場で尋ねるのなら仕方ないのだ。本来“許せ”に対する返事は不要である。双方それを理解しているからこそ、細かく食いついてきたルティエにレオシュは戸惑ったのだ。
彼女に嫌われるのが怖かった。
「ありがとう、ボネシャール侯爵令嬢」
二人の中で〈公けの立場〉の意思疎通が適った。
「う、うーん」
脳震盪を起こしていたロワークの意識が戻ったらしい。レオシュは起きあがろうとする彼の右手を踏んで、ルティエの隣に寄り添った。白々しくも気が付かなかったふうを装って。
「ぎゃっ!!」
「ああ、失礼」
私怨丸出しである。