サイ古
バブエ・カルダット。
『インド最強』及びカラリパヤット道場の師範である。
しかし、バブエが強すぎるあまり、弟子は次々に逃げ帰り、今や、アショクただ一人だけだ。
彼は十二時間、動物の型・柔軟・ツボの鍛錬を繰り返す。オイルの香りが皮膚に染みる頃、ようやく彼の一日が終わる。
カラリパヤットでは身体の『柔軟性』が問われるため、バブエは地道に鍛え上げていたのだ。
その域は仙人に達していると言っても過言ではない。
そんな男が冷たい岩肌に顔を付けている。
(今までの損傷が蓄積していたとしても、これは不可思議だ。まだ、余力があると見るのが自然だろう......)
万祝は慎重に彼へ寄っていく。
ただ、飛礫を飛ばしたりはしなかった。
なにか......嫌な予感がするのだ。
「おい、こんなものじゃないだろう?」
すると、バブエが汚れを払いながら、カタツムリかのようにゆっくりと立ち上がる。
「あまり、老体に無茶をさせるものではないぞ」
「俺はお前みたいに動ける奴を老人とは思わない」
再度、両雄が向かい合う。
「私なりに頑張るとするかな」
バブエが右腕を引いた状態で止まる。
「ようやく、慣れてきたところだ。ここからは一瞬で決着を付ける!」
万祝がトの形をした鉄棒の拐を取り出し、両手でその持ち手を強く握り締める。
瞬間、万祝はスタートを斬った。
そして、拐を構えて、土手っ腹に三発放つ。
それと同時に万祝が下がる。
その行動のすぐ後にバブエの右拳が発射される。
万祝は拐を右へやって受け流すと、右腕にダメージを負わせようと、左の振り下ろしを決行した。
「まじかい?」
しかし、鉄が皮膚に食い込むだけで大したものは与えられなかった。
それに気を取られていると、バブエの下半身から左脚が隆起してくる。
万祝が拐を突き出して防ぐも、坂まで吹き戻された。
先の叩きつけの負傷もあってか、万祝の体が一瞬固まる。
その隙を突いたバブエから右脚の回し蹴りが届こうとしていた。
(威力は強大だが、リーチと体重がある分、速度は問題ない!)
万祝が攻撃を見斬り、すり抜けるような回避を使って後ろに回り込むと、延髄を狙って蹴りを入れた。
だが、バブエの首も柔らかく、衝撃が吸収されるため、致命傷には至らない。
(いくら、柔らかいからと言って、ここまでのは異常だ。まだなにかあるな......それに最初から左腕を使っていないことも気になる。挑発か?)
今、万祝の頭は冴えている。
ムウの時より、冷静差は上がったようだ。
「あまり、小難しそうな顔をするな。緊張は確かに大事だが、ずっとしすぎるのは良くない」
バブエは軽く笑みを浮かべた。
「なぁ、左腕は使わないのか?」
率直に訊く。
「ああ、これか。ヒンドゥー教には左手は不浄という考えがあるのだが、私の左腕は穢れすぎている。同じく穢れている者ならば、躊躇はせん。しかし、君は良い人だ。触れることすら、許されんだろう」
そう言うと、右腕より一回り大きい左腕をさすった。
「もし、追い詰められた状況になったら......お前は左を使うのか?」
質問ざまに万祝がトップスピードを維持したまま、拐を投げつけて左に移動すると、左右同時に冷たき光沢を帯びた横振りを加える。
「さぁ、どうだろうね」
バブエは独立した方の拐を掴み、腕を相手へ振るう。
それを見越し、万祝がしゃがむ。
そして、拐の先端をバブエの顎に追突させる。
前のようによろめくかと思ったその時、彼の右脚が飛び、異様に捻られた右腕も帰ってきていた。
(両側からの攻撃か......しかし、判断を誤ったな?)
万祝はその攻撃が届くより前に手のひらでバブエの腹に触れ、とてつもない力を発揮する。
「おっと」
バブエは吹き飛ばされた状態で塀を越えると、城外へ放り出される。
だが、間一髪のところでその塀を掴む。
「お前の力を利用した掌勁だ。これで、左を気には......なったかな?」
決着と言わんばかりに万祝が塀の上に立ち、脚を構えている。
「いや、ないね。こう見えて私は......負けず嫌いなんだ」
バブエの声から力が抜ける。
「そうか。じゃあな」
万祝がケリをつけようと、脚を後ろに引こうとした瞬間、バブエが薬指と小指だけで有り得ない力を引き起こし、城内に舞い戻った。
(な!?)
ただ、蹴りを当たったようで、親指・人差し指・中指はへし曲がっている。
しかし、それすら、バブエには大きな傷にはならず、指たちが動いて元の形へ戻すと、完全復帰だ。
「君が全力を出しているのだ。これ以上、力を使わぬ道理はない。こちらも......リミッター解除だ」
バブエの優しげのあったオーラが突然、全ての物や事、光でさえ掌握をしてしまう闇へと化した。
その闇は炎の信念を灯した万祝を蝕もうと躙り寄ってきていた。
(なんだよ、これ......ムウの比じゃない!)
途端、万祝は冷静を保てなくなる。
「お前は何者なんだ?」
万祝が口を震わせて、恐る恐る訊いた。
「才能のなくして歳を取った、ただの凡人だ」
バブエは今、幼虫の進化したサナギから更に進化を果たし、成虫と成った。
(この男に才能がないのならば、一体誰に才能があると言うんだ?)
万祝は子供の頃から兄ほどとは言えないものの類を見ない才能があるとチヤホヤされていた。
それを遥かに越そうといる男に......才能がない?
そんなわけがない。
万祝の頭は支離滅裂な状況に陥った。
すると、バブエが横に回り込んで、拳を放ちに来る。
その速度、弾丸の如く......
万祝が拐を挟み込んで防ぐが、彼の腕の破壊力は凄まじく、坂の床は大破し、当の万祝も無事とは言えなかった。
(......まだ、動ける! ムウは俺よりボロボロの姿であんな闘えていたんだ......俺が引くわけには行かないだろ!)
万祝は信念のみで起き上がる。
「かかってこいよ! デカブツ!」
万祝が魂の奥底から叫ぶ!
「やはり、世界は面白い!」
バブエが微笑みながら、突撃する。
(小手先の技を使ったとて、バブエを破るのは不可能! もう、こうなったら......正面衝突っきゃない!)
万祝は覚悟の決まった凛々しい顔で迎え撃つ。
そして、千手観音が如くある技の中で選んだのは......カマキリの鋭さを手に纏う蟷螂拳!
瞬間、たちまちにバブエが突き出した万祝の左腕を破壊する......しかし、バブエにもダメージが入っていた。
その穴は小さいながらも、大量の出血が生じている。
「防御と反撃を両立させるか。流石としか言いようがない」
万祝は倒れ込みそうになる。
代償が大きすぎたのだ。
(俺は......なんのために存在しているのだろう。中国の代表として闘うためか? それとも、こんな風に圧倒的な差を見せつけられて負けるためか?)
万祝には、もう勝とうとする意志が消えてきた。
炎の信念は小火となって、彼が倒れるようという瀬戸際を頼りなく、支えていた。
「君が弱いわけではない。今は私より弱いだけなのだ。君も鍛錬・経験を積んでいけば、自ずと私を越えるであろう」
バブエは万祝を嘗めているわけではない、むしろ、尊敬すらしている。
自分より若く、小さい。
そして、バブエと同じ......いや、それ以上のものを彼は背負っているのだ。
そう思うと、バブエは胸が締め付けられるようだった。
バブエはトドメを刺すか、刺さないか、その判断を決められずにいた。




