第三章 二十九 『恐怖の女傑』
二十九
(今何て言ったの、この人!?)
沢崎直は戸惑いと衝撃で固まったまま動けない。
そんな沢崎直の様子を気に掛けることもせず、婚約者の美女は続けた。
「記憶喪失のフリなどと、いい加減大人になってください。」
呆れたような美女の口調に、沢崎直は核心を突かれたようで心臓が跳ね上がる。
(えっ!?中身が別人だってバレてる?だから、態度がおかしかったの?この人。)
しかし、次に続いた言葉で、沢崎直の今の予想が外れたことが知らされるのだが、それは更なる混沌を沢崎直にもたらした。
「一年も失踪していたと思ったら今度は記憶喪失などと……。私との婚約を破談にするためなら手段を選ばないおつもりですか?でしたら、直接ご両親にそうおっしゃればいいのに……。」
(ど、どういうこと!?何言ってるの、この人?)
冷え冷えとした視線で沢崎直を射抜き、微笑みを保ったまま凄んでくるマリア嬢。
混乱を来した上に記憶のない沢崎直には何も返すことが出来ない。
「ですが、一年前にもお伝えした通り、私は貴方と結婚する意志に変わりはございません。何をなさろうとあなたの勝手ではありますが、あまりこちらの手を煩わせないでくださいませ。まあ、貴方が何をなさったとしても、こちらも全力で貴方と婚姻を結ばせていただきますから。」
えげつないほどの美女のとどめの一撃のようなとびっきりの笑顔。
それは、とんでもない破壊力を持つ。
沢崎直は歯の根が合わぬほどの恐怖を感じて、思わず一歩後ずさった。
だが、開いた一歩を優雅に詰めてくるマリア嬢。
「私から逃げられると思わないでください、アルバート様。」
(お、お、お、おっかねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!)
底が知れない美女に笑顔で凄まれた沢崎直は恐怖で膝が笑い出していた。
猛禽類が獲物を前にしたかのような視線で沢崎直を捉え、その可憐でありながら扇情的な唇からはちろちろと赤い蛇のような舌が覗きそうだ。
沢崎直には目の前の美女がバケモノにしか見えなかった。
(聖女って、何ぃぃぃぃぃぃぃ!?)
沢崎直は心の中で絶叫した。
沢崎直は後に思い知る。
世間に流布されている噂などは信用できないと。
特に、自分が周囲からどう見えているかを自覚的に捉え、それを操作できるほどの有能さを持つ人物に関する噂というのは、当人が周りに対して作り出した幻影の宣伝に他ならないのだから。
皆に公平で優しいというのは一見すると素晴らしいことのようだが、それはただ義務を遂行しているだけで慈悲ではなく、誰の事も大切ではないということもあるかもしれない。
自覚的に周囲に対して聖女だと喧伝するのは、何を得るためなのか?
周囲の印象を徹底的に操り、一分の隙もなく常に立ち振る舞い、義務として慈善を行えるほどの女性。
そんなとんでもない女傑が、アルバート氏の婚約者であった。
後は蛇足ではあるが追記しておく。
この令嬢のミドルネーム。それは奇しくも沢崎直の世界における伝説級の毒婦の名前であったと。




