第三章 十九 『異世界生活』
十九
それから……。
沢崎直の異世界生活は屋敷の中を基本にして瞬く間に過ぎていく。
まずは、記憶を取り戻すための思い出歓談会を日常業務としてこなし、そこで得た情報を時系列に並べ整理し、アルバート氏に擬態するために記憶していく。
他にも、屋敷内の書籍を読み漁り、歓談会以外の時間に執事のリヒターや従者のヴィルにこの世界の常識を質問し学習する。
それだけではなく、何かあった時に動ける身体でいた方がいいと考え、日常のトレーニングも開始した。手始めに筋トレやジョギングを試してみるが、アルバート氏の肉体は沢崎直の想像以上のポテンシャルであった。長年の鍛錬の成果であろう強靭な肉体は、かなり高負荷のトレーニングにも耐えられるし、元の世界の実年齢よりも若い身体は回復も早かった。
空手の稽古だけは万が一誰かに見られたら大事なので、誰にも見られないようにそっと自室で黙々と行っていたが……。
(本当は、気合一発、声を出してしたいんだけど……。)
贅沢は言ってられない状況であるのは重々理解しているので、そこはちゃんと諦める。
異世界順応のために頭だけではなく身体を動かすことは、心身ともに健康でいるためのいい秘訣になった。
それに、アルバート氏に身体を借りている義理のようなものもあるので、沢崎直は元々の身体よりも大切にしようとそう深く心に決意していた。
(お腹タプタプのイケメンじゃ、申し訳ないし……。)
見事に割れた腹筋のシックスパックを確認しながら、沢崎直は肉体を仕上げるためにトレーニングを続けた。
あと、今後の沢崎直の異世界生活において忘れてはいけないのは『アルバート氏・婚約問題』だ。
こちらは、従者のヴィルの提案通り、メイドさんたちに話を聞きながら沢崎直は情報を集め始めた。元・女性である沢崎直にとっては、井戸端会議に参加して馴染むことはさほど難しいことではなかった。初めは主人であるアルバート氏に対して警戒して口を開いていたメイドさんたちも、ノリが良ければその内に心も開いて口も軽くなってくれる。
メイドさんから軽く集めた情報によると、婚約者のマリア嬢というのは相当な女性のようであった。
メイドさんが口々に賞賛の言葉で褒め称える上、悪いウワサが全く出ない。
この国における女性の憧れの頂点のような女性で、控えめに言って完璧である。
メイドさん曰く、祖先を辿れば王家に連なる由緒正しき血筋を持つ侯爵令嬢で、容姿端麗、品行方正、叡智聡明etc……。賛美するのに四字熟語が満載になるほどの女性で、あまりにも自分とかけ離れすぎているため嫉妬心すら起きないほど雲の上の存在らしい。その上、慈悲深いノブレス・オブリージュ的精神で繰り返される善行の数々によって『聖女』という称号をほしいままにしているらしい。
そんな聖女のごとき天上の女性と婚約が出来るなど、前世の行いがよほど良かったと羨ましがられているのが現在のアルバート氏の状況らしい。一年前に失踪したと伝えられた時も、動じることなく「あの方を待ちます。」と言ったとか、言わないとかで、美談として世間で語られているらしい。
当事者であって当事者ではない複雑な立場の沢崎直としては、話を聞けば聞くほどもう勘弁してくれとしか思えなかった。
その上、執事のリヒターが持ってきたそのマリア嬢の肖像画を見て、沢崎直はもう頭を抱えるしか出来なかった。
(めっちゃくちゃ美人やん……。)
肖像画というのは普通、実物よりも三割増しくらい魅力的に描くものだ。肖像画を依頼される画家は客商売であるし、依頼主の機嫌を取るのが当たり前だから、沢崎直が元いた世界でも、写真や映像の加工などは当たり前に行われていた。実物を見て、別人だったことも少なくはない。
だが、本人と面識のあるメイドさんたちの話によると、実物はこの肖像画を上回る美人だという。
先日森でお世話になったハンプシャー伯爵令嬢も華やかな美人だったが、この肖像画の女性は遥かにそれを上回る美人だ。華やかさも持ち合わせながら、いっそ近寄り難いくらいの高貴さも持ち合わせている。その上、男だったら一度でいいからお近づきになりたいと思うような魅力に溢れているだけではなく、更に清純さも持ち合わせていると、まさにてんこ盛りの美人。
(……何て言うか、女子力の化け物?化身?権化?)
庇護欲を掻き立てそうなつぶらな瞳は、見つめられるだけで舞い上がる男が数えきれそうもないくらいいそうだし、ぷっくりと膨らんだ唇はその柔らかさを想像して悶絶する男がこちらも数えきれないほどいそうだ。とにかく、この女性を思って眠れない夜を過ごす哀れな恋の犠牲者に事欠かないというような、そんな女性がアルバート氏の婚約者であるようだった。
「美男美女のカップルかぁ~。」
メイドさんたちの噂話のうきうきした様子は、沢崎直の世界における大物芸能人同士のカップル誕生のはしゃぎ方と酷似していた。沢崎直だって、婚約しているのが自分でなければ一緒に騒ぎたいくらいだった。
「どうしたらいいのかな……。」
今後のことを思うと、どうしてもため息は深くなる。
それを振り払うかのように、沢崎直はトレーニングを始める。
そうして、沢崎直はこの異世界で生きるため必要な知識と力を蓄え始めていた。




