第三章 九 『悪夢』
九
「……っく、……っ。」
誰かが泣いている。
「……っ、……ひっ。」
誰にも届かないような、そんな小さな声で。
声を押し殺すようにして泣いている。
本当は大きな声で泣き叫びたいほどの激情に駆られているはずなのに……。
誰にも聞かれてはならぬと、咽び泣く声を、それほどの思いを必死に殺している。
「……っ、………っ!!」
何がそんなに悲しいのか?
何がそんなに辛いのか?
何がそんなに苦しいのか?
何故そんなにも押し殺さねばならぬのか?
身の裡を焼き尽くすほどの炎のような激情に焼かれながらも、悲鳴一つ上げることはできない。
押し殺した声で誰にも知られず咽び泣くことしかできない。
それは、まさに地獄の苦しみだった。
「………っ!」
沢崎直は虚空を掴むようにして、目を開けた。
何度か瞬きをして、天井を見上げる。
その内に少しずつ意識がはっきりしてくる。
ようやく今まで夢を見ていたことに気づき、虚空を彷徨わせていた腕を下ろした。
(……夢?何だかすごく悲しかったけど……。)
夢の内容はあまり覚えていないが、夢の中で感じた強烈な悲しみの余韻だけは、沢崎直の心に深く刻まれている。
気づけば瞳の端から涙が流れていた。
夢の残滓を振り払うかのようにこぼれた涙を拭い、沢崎直は大きく伸びをする。
ピチチチチ。ピイッ。ピチチチチ。
そんな沢崎直の耳に爽やかな朝に相応しい小鳥の声が届いた。
窓から射す太陽の光も柔らかく、まるで世界を祝福するかのような朝日が世界に降り注いでいる。
「あー、よく寝た。」
しっかりと睡眠をとったおかげで、すっかり朝だ。
夢の残滓を振り払ってしまえば、十分な休息のおかげで気分は悪くなかった。
(はいはい。異世界異世界。)
自分の口からまだ慣れぬイケボが聞こえたとしても、鷹揚に構えていることが出来る。
目覚めたら現実世界に戻っているという夢オチの可能性の希望を即座に切り捨て、気持ちを切り替えると、とりあえずベッドから立ち上がる。
沢崎直は昔から目覚めは良い方だった。
窓から差し込む柔らかな朝日を浴び、大きく深呼吸をして眠気を完全に振り払う。
(とりあえず、起きたはいいけど、これからどうしよう……?)
この世界の事も、この屋敷の事も、アルバート氏の事も何一つわからない。
知らない世界で、知らない人の家で、知らない人の姿で目覚めた沢崎直に、いつも通りの朝のルーティーンなどありはしない。元の世界の常識など、この場で通じるはずもない。
何となく窓から外を眺めると、既に朝早くから働いている使用人の人たちの姿が見えた。
(みんな早起きだな……。)
当たり障りのない感想を抱き、ぼーっと外を眺めているしかない沢崎直。
そんな沢崎直の背中に、少し気を遣ったようなノックの音が届いた。
コンコン。
「アルバート様、お目覚めでいらっしゃいますか?」
室内を窺うかのように掛けられるのは超絶イケメンの声。
ぼーっと窓の外を見ていた沢崎直の脳内に、猛スピードで昨夜の寝る前の光景が再生され始めた。
それは、まさにフラッシュバック。
間抜けに意識を手放したところまで一瞬で再生され、沢崎直は思わず唸る。
「うーーっ。」
(そうだった。私、過労とイケメンの過剰摂取で昏倒したんだった……。)
朝の爽やかさも吹っ飛び、沢崎直は頭を抱える。
「アルバート様?」
扉の向こうから控えめに掛けられる超絶イケメンの声。
多分、かのイケメンは職務に忠実で真面目で、昨日見つかったばかりで昏倒したアルバート氏のことを心配しているのだろう。
このまま無視してしまうのはあまりにも気が引けるし、返事をしなければ様子を見に入ってきちゃう可能性は大いにある。その時に、寝たフリなどを決め込むのも、結局心臓に悪そうだ。
覚悟を決めると、沢崎直は扉へと向き直った。
「はい、起きてます。」
その声を合図に、扉は外から開かれた。




