第3話 魔獣の谷の底
「うわああああああああああ!!」
俺は檻の中に閉じ込められたまま谷底まで滑り落ちた。
いや、途中からは転げ落ちたと言うべきか。
「いたた……」
落下中に全身をしこたまぶつけ、身体のあちこちに激痛が走る。
落ちた場所が沼地でいくらか落下の衝撃を吸収してくれたのは幸いだった。
俺はまずは自分の怪我の状況を確認した。
全身が切り傷や打撲で痛むけど、骨折のような大怪我には至っていない。
「俺に神聖魔法が使えればこの程度の怪我は簡単に治せるんだけどな……」
エバートン家は元来高名な神官や聖女を輩出してきた司祭の家系である。
回復魔法や破邪魔法を使いこなす者も多い。
俺にもその血が流れているはずだが残念ながら俺には神聖魔法の才能はなかったようで、怪我人を治癒しようとしたところ誤って黒魔法を発動させてしまい、逆に相手の怪我を悪化させてしまった事もある。
「こんな事ならもっと神聖魔法の練習をしておけばよかった……」
しかし後悔先に立たず。
ぼやいても始まらない。
俺が檻の中でまごまごしている間にも檻は少しずつ沼の中に沈んでいっている。
既に膝のあたりまでが泥に埋まっている。
ここは底なし沼なのかもしれない。
とにかく檻から出て一刻も早くこの沼から出ないと。
とは言ったものの囚人を閉じ込める事が目的なだけあってこの檻は相当頑丈に作られている。
谷底まで滑り落ちた衝撃でも少し格子が歪んだ程度しか破損は見つからない。
しかもよりによって兵士たちは鍵を掛けたまま檻を谷底に放り捨てやがった。
俺はこの檻から出る事もできずに沼の底に沈んでその生涯を終える運命なのか……。
──と、王国にいた頃の俺なら途方に暮れていただろうが、俺は既にアガントス王国から追放された身だ。
母国で忌み嫌われていた黒魔法の使用を躊躇する理由が無い。
谷底へ落下する途中でも風を操る黒魔法によって周囲に上昇気流を作り出す事で落下速度を緩めつつ、目下に見えた沼地に落下するように位置の調整をした事でダメージを最小限に抑えていたんだ。
実を言えば護送中でも黒魔法を使えば脱走する事は簡単だった。
しかし王国内でそれを行えば俺は脱走犯として更に罪を重ねる事になる。
そうすれば王国は俺を討伐する為に兵を差し向けるだろう。
さすがに何千、何万という兵士を黒魔法一つで返り討ちにする事はできない。
俺が大人しくこの魔獣の谷まで連れて来られてきたのは、あくまでその方がアガントス王国の軍隊を敵に回すよりも生き残れる確率が高いと踏んでの事だ。
檻ごと谷底に突き落とされるのは完全に想定外だったから焦ったけどね。
俺を後ろ手に縛っていたロープは既に黒魔法で消し炭にしている。
もう俺を拘束している物は何もない。
「……破壊魔法、デモンズクラッシャー!」
俺は前方に手を翳して魔力を解き放つと、黒魔法で生み出された爆風によって目の前の格子はいともあっさりと吹き飛んだ。
我ながら大した威力だと思う。
この黒魔法さえあればこの谷に巣食う魔獣に襲われても一矢報いることくらいはできそうだ。
俺は急いで沼から抜け出し、固い地面の上に辿り着くとその場に座り込んで休息を取った。
「ふう……よし、とにかくこの谷を抜けるぞ!」
体力が回復したところで俺はパンッと両手で頬を叩いて気合を入れ、まずは周囲の地形を確認する。
谷底は草木の類が一切見当たらない不毛の地だった。
目に入ってくるのはむき出しの岩肌と動物の骨、そしてクレーターと見間違うような巨大な窪みは魔獣の足跡だ。
魔獣の谷に生息している魔獣たちは主に谷底に溜まっている魔界の瘴気を糧にしていると聞いた事がある。
つまり魔獣たちはこの場所で呼吸をしているだけで栄養を取り込み生きていけるのだ。
まさに人間の常識などまるで通用しない世界だ。
しかし魔獣たちは魔界の瘴気以外を食さないかというとそんな事はなく、ここに迷い込んだ外界の生き物は全て彼らにとっては臨時のおやつとなるのがオチだという。
それに黒魔法の源である黒魔力は魔界の瘴気と同等の物質だと聞いた事がある。
黒魔法の使い手はその魔力によって自己の体内で魔界の瘴気を創り出す事ができるのだ。
魔獣たちにとっては多くの黒魔力を宿した俺の身体は最高のディナーになるだろうな。
できる事なら魔獣と遭遇する前にこの谷を抜けたいものだ。
俺が滑り落ちてきた谷の入り口方面から戻る事は不可能である。
その岩肌は脆く、斜面を登ろうとしてもまるで蟻地獄のように簡単に崩れ落ちてしまう。
これでは登りきる事などできない。
戻れないのなら先へ進むしかない。
「いたたっ……もってくれよ俺の身体……」
俺は全身を襲う痛みに耐えながら立ち上がると、魔獣の谷の奥へ向かって当てもなく足を進めた。
「シャアアア……」
「ガルルルルル……」
見栄えの変わらない景色が続く中、魔獣の声だけが谷底に響きまわる。
俺は魔獣に遭遇しないようにできるだけ声が聞こえる場所を避けながら慎重に先へ進んだ。




