貧すれば鈍す
ここは探偵事務所の屋根の上。そろそろお昼時。街の方から色々な調味料が焼けた匂いが漂ってくる。
――雑念を振り払え。
欲望があるから苦しむのだ。苦しみから逃れるには欲望を捨て去るしかない。
有言実行。タキシードが雑念を捨て、スフィンクス座りになって無我の境地に至ろうと精神統一していると、やがて嗅覚も聴覚も遠のいていき、だんだんと瞼が落ちてくる。このまま入寂できそうだ。そう感じた瞬間、彼の鼻頭に一匹の蝶々が留まった。
タキシードの猫目が、すーっと中央に寄った。
――食えるかな?
つい可食性を確かめようと鼻をスピスピ動かすと、殺気を感じたのか、蝶々はひらひらと風に乗って舞い去ってしまった。
昆虫食を考えるほど、腹が減っていた。
「今日もご飯、ないの?」そう言った妹の悲しそうな顔が脳裏を掠めた瞬間、タキシードは覚悟を決めた――プライドなど、犬畜生どもに食わせてしまえ。
タキシードは決意を胸に、黒い翼を広げ、屋根を蹴って滑空し、ベリーヒルの麓に向かって降りていった。
ベリーヒル麓の公園には人だかりができていた。
きゃあきゃあという黄色い歓声の中心には一匹の黒猫。
タキシードは媚びた。
きゅる~んという擬音が聞こえてくるほど、つぶらな眼を作り、これ以上ないくらい人間の庇護欲を刺激する猫なで声を駆使し、媚びに媚びた。
おかげで今、彼の周りにはご近所の女性陣、子供達、猫好きのおっさんどもが、円陣を組んでタキシードの芸術的な媚びの売りっぷりを堪能していた。若き赤貧の日々に、色区のお姉さん達相手に鍛えられた彼の艶やかな姿態を前に、ベリーヒルの純朴な人々はメロメロになっていたのだ。
心の奥底で羞恥心が動いても、「兄ぃ~ひもじい~」と言って白湯を啜るエイジャの貧相を思い浮かべ、タキシードはそのちっぽけな自尊心を意識の深きところに沈めた。
――チャリン。
そしてまた、お椀の中に金貨が落ちた。
おさわり銀貨一枚。抱っこ金貨一枚。頬ずりその他濃厚接触はプラチナ貨一枚。翼は優しく触る事。なお男性は料金が二倍になります。
だがこの完成された誘惑を前に、辛うじて正気を保つ男がいた――カシスだ。
「……騙されるな……こいつはタキシード……こいつはタキシード……こいつはタキシード……」
カシスは呪いのように口の中でそれだけを反芻し、眉間にしわを寄せて腕を組み、平静を保っていた。
カシスはタキシードを抱っこした経験がほとんどない。今更タキシードを猫として愛玩できないという、若者特有の意固地なプライドが、彼の中に太い一線を引いていたからだ。
――もうこの際、カシスからも巻き上げよう。
必死に抵抗を試みるカシスにも金を払わせるために、タキシードが媚びのレベルをもう一段階引き上げる。身体をくの字に曲げつつ、天地逆転の万歳を決めながら「うにゃぁ?」と痴れた表情を浮かべる、という大胆不敵なテクニックをお披露目だ。
だがしかし、この技はタキシードの精神にも深い傷を残す危険な技でもあった。
「くっ……! こいつはタキシード、こいつはタキシード……」
カシスに会心の一撃が入った。早口になっている。もう少しで堕ちそうだ。
(ワシは猫や、ワシは猫や、ワシは猫や、ワシは猫――)
タキシードもまた、自己催眠を駆使して猫を被りきった。お互いに理解しがたい意地の張り合いが衆人環視の中で火花を散らしていた。
皮肉にも、このカシスの頑張りはタキシードの愛玩レベルを引き上げ、周囲の人々をより一層魅惑し、投入される御捻りのペースアップに貢献する形となった。
おまんまにありつくには対価が必要なのだ。タキシードは今まさに自尊心を支払っている。妹の笑顔を取り戻すために。
タキシードが背中を地面にこすり付けてモゾモゾ。お腹を披露していると、聴衆の中からこちらを見つめる見知った人物と目が合った。
「あ――」
「クスクス……兄ぃ、可愛い」
口を手で隠し、人混みの中で忍び笑いするエイジャ。
タキシードは恥ずかしい行為を見られた思春期の若者のように慌てて姿勢を正し、恥ずかしい物を隠すようにわたわたと彼女に向き直った。
「――なんやて?」
ギロリ。タキシードはエイジャにキツい視線をくれた。
タキシードは妹に、兄を可愛いと評することを強く戒めていた。
「ごめんごめん――ププッ……かっこいいよ、兄ぃ」
エイジャがニマニマ含み笑いしながら前に歩み出してくる。
「おうよ――そしたら、もう仕事の時間やからお終いや。皆様、ご愛好をありがとうやで」
「えー、もう終わりー? 私まだ抱っこしてなーい」
ぶうぶう言う聴衆に向かってタキシードが紳士然と慇懃に礼をして見せると、彼らは名残惜しそうに散っていった。
「――そうしたら兄ぃ、バワーズさんのところに行こっか。お仕事もらわないと、私たち干上がっちゃうよ」
営業活動。エイジャが真っ当なこと言った。タキシードははっとした。
「――貧すれば鈍する……名言やな。先人の言葉はちゃんと聞かないといかん。……エイジャ、ワシはゼニがなさ過ぎて我を見失っとったみたいや。よう言ってくれた。探偵らしく行こうか」
人間の智慧を失い、獣に墜ちかけていたタキシードがゾッとして格言の意味を噛み締めた。彼は身体をブルブルと震わせて土埃を振るい落とし、エイジャの肩に乗った。エイジャはそんな彼の身体を優しく撫でて微笑みかける。
「――帰ったら私にも、さっきの万歳ポーズやってね?」
「っ――いつから!」タキシードは愕然となって、「……いつから見とった?」と、恐る恐る聞いた。
エイジャが指を顎に当てながらふーん……と逡巡して口を開く。
「兄ぃが子供達に乱暴にまわされ始めた頃から、かな」
「結構、初めから見とったね……」
エイジャの声に、タキシードはがっくりと力なく首を垂れた。




