危険な誘惑
一瞬ポカンと呆けた様子でカシスを見上げたイノライダーだったが、静かに立ち上がってパンパンと服を払うと、差し出されたオレンジを受け取った。
「――少年……ありがとッス。よく見ると逞しそうで、結構いい男じゃないッスか。彼女とかいるッスか?」
イノライダーは目つきがヤバいだけで、他のパーツは全部美人だ。崩したシニョンは目元の表情と相まってアンニュイな魅力を彼女に与え、ちょっと細めでか弱そう(不健康そう)な立ち姿もミステリアスな印象にひと役買っている。
お仕事風の、本来パリッと着る服を着崩した装いも、カシスの目には新鮮に映っただろう。イノライダーの気怠げな流し目を受けたカシスが、どぎまぎし始めた。
「……おーおー、ませガキが顔をリンゴみたいに赤くしとるわ」
「お、おい、タキシード。やめろよ……」
「イノライダー、自分年下にはモテるんちゃう?」
「普段はモテないみたいな言い方っ! 所長、自分まだまだピチピチっすから」
へらへらと首をかしげてみせたイノライダーは、カシスに歩み寄り、彼の肩に腕をかけて、頬が触れ合いそうなほどの至近距離でオレンジに齧り付くと、その皮を口だけで剥いて見せた。おかげで飛散した柑橘汁がタキシードの目鼻を刺激して痛かったが、それだけの仕草が妙にエロティックに見えた――イノライダー、侮り難し。
「――少年、今晩一緒にイクっすか……色区に」
「い、色区……」
ごくり、生唾を飲み込むカシス。
「お、行ったことないッスかね。なら奢りがいがあるってもんスよ。万事、おねーさんにまかせておくッス」
「やめとけカシス。廃人になるで」
「廃人」
「おねーさんのテクニックで朝までしっぽり。昇天させてあげるッスよ」
「しっぽり昇天」
「――はぁ……文字通り、昇天させられるで。やめときやめとき、その女は。もし五体満足でこの果樹園、続けたいんならな」
全身を強張らせておうむ返しするだけの機械に成り果てたカシスに、タキシードが嘆息混じりに言った。
カシスは「そ、そんなに……」などと呻いていたが、タキシードはこれ以上イノライダーに揶揄わせるつもりはない――生意気なガキでも、ご近所さんの大事な跡取りだ。
「しょちょー。なんか自分のこと誤解してないッスか? ……へへへっ、まぁいっか。所長、果肉亭いきましょーよ」
「自分のおごりやで」
「おねーさんに任せなさい。少年もイクっすよ」
ドンと薄い胸を叩いてみせるイノライダー。タキシードがバッサバッサとカシスの肩に乗って感心そうに言う。
「ふとっぱらやな。カシスの前でいいとこ見せてんの?」
「へへっ、自分、後輩がいないもんで……こういうのやってみたかったッス……」
「――カシス、懐いてやれ。深入りしなければ平気や」
ずーんとなったイノライダーに、カシスをけしかけるタキシード。
「よ、よろしくお願いしますっ。俺、カシスって言います! この果樹園で働いてます! フルーツ栽培なら任せてくださいっ!」
「自分はイノライダーっす。こっちの格好いいのが、レストレイド。長年連れ添った相棒ッスよ」
ワンッと切れの良い吠え声を出したレストレイドを連れ、一同はベリーヒルの坂を下っていった。風が少し冷気を含むようになってきていた。今年の篝火花の季は、寒いのかも知れない。




