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カシスと猫大将

「――おっと、取りこぼし……」


 カシスは汗を拭いながら、一個だけぶら下がっていたオレンジの実を()いだ。


 カシスはベリーヒルで果樹栽培の手伝いをしている。ゆくゆくはこの両親の果樹園を受け継ぐのだろうし、彼自身もそれに望んで日々の仕事を学んでいた。


 ベリーヒルの標高はそれなりにあり、山なのか、それとも丘なのかは、見る人によって認識が別れるところだ。このベリーヒルには二十を超える果樹園があり、背の低い果樹によって丘全体が覆われているため、遠目にはこんもりと綺麗に刈り揃えられたトピアリーのようにも見えることから、南バミューダのランドマーク的な存在として親しまれていた。


 今日の午前中の仕事をひと通り終え、カシスは背中を伸ばした。


 なぁ、という鳴き声とも呼び声ともつかぬ声が、背後から届いた。


 タキシードだ。腰に手を当てたままのカシスに向かって、整然と並んだ果樹のトンネルの下を、のしのしと偉そうに歩いてくる。


「――うちの樹は、この前の収穫祭で取りきったから、しばらくは落果もねえよ」


 そう言ったカシスに、タキシードは「パトロール中や」と答えた。


「ベリーヒルはワシのシマやからな。ワシの目が青いうちは鳥害(ちょうがい)鼠害(そがい)無縁(むえん)安泰(あんたい)……イエァ! 分かったら今自分、民草(たみくさ)は今時分(じぶん)。せっせと働け今こそ、ワシにお供えして行け今すぐ。バチは当たらん、ワシはナンバーワン。むしろご利益あるかも、見てろよ霊験あらたか。不思議パワー見せるぜ、マジなセレブレイト的愛情、そう、ワシが天下無敵の猫大将ー‼」


 途中から二本足で立ってチャカチャカした陽気なリズムに乗り始めたタキシード。いつの間にかサングラスをかけ、黒い紙吹雪まで舞い、周囲ではネズミたちがチューチュー喝采していた。


 そんな珍奇を見たカシスが、呆れ顔になって嘆息を漏らす。


「王様気取りかよ……言われなくても――やってるよっ!」


 カシスは元気に答えて刈った雑草を満遍なく周辺にまき散らした。雑草を今度は肥やしにするためだ。果樹栽培において、こうした雑草刈りは重要な仕事のひとつだった。


 タキシードがサングラスをピッと投げ捨てると、それは地面に落ちるやいなや溶けるように消えてしまった。


 カシスが怪訝な表情になってサングラスが消えた場所を凝視していたが、そんなカシスを無視してタキシードが、思い出したように口を開く。


「そういえば自分、向こうの石垣崩れとったで」


「え、まじかよ」


「こっちこっち」とタキシードが尻尾を立てて先導し、カシスも素直に続いた。


「あ、ほんとじゃん……」


「おとといの雨ちゃう? 風強かったし」


「石垣は雨風じゃ崩れねぇよ……裏に虫が巣くったか、根が押したんだな」


「そういうもんか……ほんで、(なお)さんの?」


 おもむろにカシスは目を閉じた。術の発動だ。


 農業の従事者のほとんどが〈土精霊術アース・エレメンタリズム〉を習熟する。それ以外の選択肢がないほどに便利だからだ。カシスも土精霊術を(つか)う。


 術の(たぐ)いは強力な現象を引き起こせる。しかし大抵の術は、その発動の準備に目を閉じなければならない。理由は(まぶた)の裏に〈グリフ〉を描くからだ。


 強力な術ほど複雑なグリフを描くことから、長く目を閉じる必要がある。術士が直接戦闘(カチあい)には向かないと言われている、決定的な理由だった。殺し合いの最中に一定時間目を閉じろ、というのは死ねと言っているのも同然なのだ。


 タキシードは精霊術を習熟していないので、こういった術士の行動は興味深く、大人しく石垣の上でお座りして、静かにカシスを見守った。


 カシスが目を開くと、その視線の先に落ちた岩がゴロゴロと転がり始め、石垣も垂直に転がり上がり、外れた箇所にゴトリとはまった。彼はその岩がはまった箇所を確かめるようにパンパンと叩くと、ふーっとひと息ついて、タキシードに顔を向けた。


「――パトロールって言うけどよ、ウチの果樹園じゃないんだけどさ、最近、収穫間際の実が、ちょっとずつなくなるっていう噂を聞くぜ。泥棒か、鳥か動物かっていう話……これってお前の怠慢(たいまん)なんじゃねえの?」


「寝てる間にお前のズボンで爪研ぐぞクソガキ」


「や、やめろよ……そういうリアルな脅し」


 シャキッと爪を出してみせるタキシード。迷惑そうな顔をするカシス。


「ふざけたこと言うからや。この街の獣で、ワシの縄張り(シマ)でそんなことしでかす奴はおらん。おおかた、外から来た新参の獣か、どの組織にも属してへん一匹狼の仕業やろ……まぁ、いずれどこかの組が吸収するか、あるいはすり潰されておしまいや」


「なんなんだよ、そのマフィアの勢力争いみたいな話……なぁ、前から気になってたけど、タキシードってこの街の動物を仕切ってんの? この街の動物ってそんな物騒なわけ? たしか前にも、お前がベリーヒルの頂上で凄い数の動物相手になんか話してたって噂が――」


「その話は、お前にはまだ早い」


 タキシードはぴしゃりとカシスの話を遮った――社会の真の姿と対峙するには、まだカシスは若い。


 そんなタキシードの偉そうな物言いにカシスが眉を顰めた、ちょうどその時、二人の背後でワンッ! という吠え声が上がった。


 タキシードが振り返って舌打ちする。


「――チッ……レストレイド……風下(かざしも)から忍び足で来よったな。このワシが気付かんかったわ」


 そんな戦場のやり取りっぽいことを言うタキシードに向かって、一匹の大型犬を連れた紫の髪の女が、手をひらひら振りながら歩み寄ってきた。


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