虚骸
タキシードは分かったことを整理してシャバーニに聞かせた。
ヴェラスケス――シャバーニの育ての親で、保健所職員。そしてニュートンの飼い主と目される男は、二十日ほど前に保健所を退職した。理由は〈虚骸〉だ。
虚骸は症状の進行に応じて徐々に記憶を失っていくという、恐ろしい不治の病だ。やがて最終的に瞳が漆黒に染まると、自分の名前も忘れてしまい、何も食べず、何も出さず、そして寿命では死なくなる。ただひたすらブツブツと意味の成さない言葉を呟き続ける生ける骸と成り果てる。そうやって虚骸の最終段階に達した人間は〈狂呟〉と呼ばれる。
それは病理の分からぬ、生き物の内なる病。感染はしない。治療は不可能だ。
虚骸に落ちた者は専門の施設に送られ、そこで経過を観察される。やがて狂呟になってしまったならば、最終的には騎士団の元に送られ、空っぽになった肉体は彼らの手によって破壊されて大地に流されるのが決まりだった。
ヴェラスケスは虚骸を患ったために保健所を辞め、施設に移った。彼の友人の話によると、妻が出産で死亡してしまったのが切っ掛けだったという。それでヴェラスケスは我を失ってしまい、虚骸に囚われてしまったのだと、友人は無念そうに語っていた。
施設に入った後も、黒い長毛猫が、ヒョウ柄の子猫を咥えてちょくちょく施設にいたヴェラスケスの元に出入りしていたらしい。その猫は、彼の妻が結婚前から飼っていた猫だったそうだ。やがてそうしてヴェラスケスは穏やかに全てを忘れ、最後に騎士団が彼の肉体を大地に返す――はずだった。
不運だったとしか言いようがない。ヴェラスケスが狂呟になった日の夜のこと。翌日には騎士団のところへ送られるはずだった、そのわずかな間隙に月が出てしまった。
月――それは何もないはずの夜空に突如として現れる暗紫色の何か。
月は祝別する。
月は宝石を祝別し、〈月煌石〉に変える。それだけではない。月は人――狂呟をも祝別し、〈月煌獣〉に変える。それゆえに騎士団は狂呟を放置せずにいち早く大地に返すのだ。
月煌獣は危険な獣だ。見た目は人間のままで変わらないが、全身がネオンに輝くようになり、元が一般人でもグロテスクと戦えるほどに肉体が強化され、そして、目的不明の破壊活動を始める。
ヴェラスケスは月に祝別されてしまった。施設で暴れ出した彼は、ひと通り近くで破壊行為を行った末、駆け付けた騎士団によって始末されたと、イノライダーが見せてくれた報告書に書かれていた。
タキシードの説明を落ち着いた様子で聞いていたシャバーニ。エイジャはそんな彼の頭を静かに撫でてやっていた。タキシードが最後にひと言付け加える。
「ヴェラスケスが過ごしてた部屋がまだ残ってるらしいわ……行ってみるか?」
場所は変わって旅人街にある虚骸収容施設の一室。
旅人街は街の最外郭に位置している。このヴェラスケスが最後に過ごしていたという部屋の壁は無残に破壊されていた。彼が暴れたためだろう。
しばらくタキシードとエイジャが荒れた部屋の中を調べていると、突然ホホホホッと鳴きながらシャバーニがドラミングを始めた。ウーッと口を突き出して打ち鳴らされた太鼓音がバミューダの空に虚しく木霊した。
ニュートンの親猫はここに最後まで出入りしていたらしい。もしかすると、ヴェラスケスが月煌獣になった時、近くにいたことでとばっちりを受けてしまったのではないだろうか。それで瀕死になりつつも、親猫はニュートンを咥えて逃げた。ここは森に近い。わけも分からず森に逃げ込み、しかしその親猫は最後に森で息絶えた。
――ニュートンはある意味、シャバーニにとって育ての親の忘れ形見とも言える。
ニュートンが縁あるシャバーニに届けられたのは、果たして偶然だろうか。
――それは実に数奇なる運命。
「――ん?」
シャバーニの雄々しいドラミング音が建物に共振し、その躯体を揺らすと、振動で壁から一枚の紙がはらりと落ちた。エイジャが紙を拾い上げてみると、それは絵だった。とても上手な絵だ。長毛の黒猫を膝に抱いた女性の肖像画が、見事な線画で描かれている。濃淡まで含めて今にも動き出しそうなほどの精細さだ。そして、その絵の右下の端には小さくサインが。
「――ヴェラスケスさん、絵描きだったんだね」
その女性がヴェラスケスの妻なのだろう。彼女の膝上に座った猫をシャバーニに確認してもらったところ、彼の前で息絶えた猫と同じだと言った。




