ゴリラ
朝、事務所の玄関ドアを開けたらゴリラがいた。
どう見てもゴリラだった。
目を瞬いてみてもゴリラであり、目をこすってもゴリラで、一度視線を下に外してから、見直してみても相変わらずゴリラだった。
ドアを閉めてから開け直したら人間になるかも、と考えたエイジャが一度玄関ドアを閉め、またドアを開ける。パタン、ガチャリ。でもやっぱりゴリラだ。
不動のゴリラ。
身体はふさふさの黒毛に覆われて、そこから伸びる太い腕、ぶ厚い胸、迫り上がった肩。ゴリラはドアの前で胡座をかいて片手を突き、もう片方の手を胸の前に置いていた。半丁博打を張る直前の歴戦の勝負師のような迫力があった。
ゴリラに似た人かも、とエイジャは思った。バミューダで先祖返りは珍しくない。
そうは言ってもゴリラ。黒光りしすぎな顔面、しわしわの皮、陥没した二つの鼻の穴、への字に結ばれた口、隆起した頭部。険しい顔つきに、つぶらな瞳のギャップがまったくもってゴリラそのものだった。
言うまでもなく、エイジャがゴリラ程度に負けるはずがない。彼女はやや錯乱してはいたものの、落ち着いていた。
されどもゴリラ。ただの類人猿ではない。タキシードは、彼女の足元で耳を平たく倒し、総毛立って腰を抜かしていた。
昨晩、明日の朝ご飯はクラムチャウダーでも食べようと約束して床についた二人。クラムチャウダーの有名なお店は港にあり、朝一が良いというバワーズ情報に基づいて早起きした二人。そんな二人の頭の中は、ドアを開けるまでは湯気を上げる白くてクリーミーなクラムチャウダーと、ほかほかのフォカッチャの絵でいっぱいだっだのだが、今は黒いゴリラの絵でいっぱいとなっていた。
ゴリラという生き物は毛の生えた玄武岩のようだった。パンパンに膨れた身体を覆う黒い体毛が思ったよりも濃い――これはひょっとして大きな黒猫なのでは。そんな迫真の推理が一瞬脳裏を掠めたタキシードだったが、そんなわけがない。ゴリラだ。
二人は混乱の極みにあった。
「――取り敢えず、中入る?」
気持ちの整理がつかないタキシードが、とりあえずそう言って身を引くと、
「ン゛ッン゛ー」
という予想外の声がゴリラから放たれ、そしてそれは骨を響かせるほど図太くて大きな声で、タキシードは肝を潰して後じさった。エイジャがそんなタキシードを抱えて道を空けると、ゴリラはようやく重そうな腰を上げた。
タキシードとエイジャは、事務所に入っていくゴリラの後ろ姿を茫然と眺めるほかなかった。
タキシードはソファーの上にお澄ましして、エイジャが床に座ったゴリラにお茶を出すというシュールな光景を見ていた。彼女の行動からは、まだ少し混乱が残っている様子が透けて見えた。ゴリラに、お茶を出すとは。
当然というか、ゴリラは熱いお茶は飲めないようで、エイジャが出したカップはスススっと押し戻され、丁寧に断られていた。エイジャはガビーンと小さくショックを受けていた。
タキシードは理由あって街の外に生きる野生動物とはあまり心を交わしたくしたくないのだが、しかし、こうなってしまえば考えを読んでみるしか手段は残されていない。
ソファーから飛び降りてゴリラに近づくタキシード。するとそれを見たゴリラが胸に置いていた手を静かに彼の方に伸ばしてきた。
よく見ると、手に何か持っている。
「? ……子猫?」
エイジャがのぞき見ると、それは子猫だった。タキシードが首をひねりつつも、先に差し出された子猫の方に鼻先をツンとぶつけてみる。そして聞こえてきた怯えを含んだか細い声を、タキシードが思わず声にしてしまう。
「――おとーちゃん?」
「隠し子っ⁉」
エイジャが驚いてコップを床に落とした。水晶製なので割れはしなかったが、中のお茶は飛び散ってしまった。コロコロと、コップが床を転がる音だけが静止した部屋の中に響いた。
「よ、養育費とか、親権とか……決めないと!」
「――い、いや、ワシちゃうやろ。ゴリラのことか? ……だめや、こいつ小っちゃすぎて話がぜんぜん分からへん! もー、これ何事⁇」
ますます混乱して猫耳を抱え、目をグルグルさせているエイジャ。タキシードも一緒になって頭を抱えた。
――ゴリラが子猫を抱いて探偵事務所を訪れる。取り敢えず、これは事件だ。
「埒があかんわ!」
この場を強引に収めるために、タキシードは問題の大元であるゴリラの手にタッチした。
「自分、なんでワシんところに…………すわっ‼」
タキシードが不意に目を剥いて仰け反り、大きな声を上げた。
「シャバーニ君か、自分! ……しっかし、どえらい……大きくなったなぁ」
「シャバーニ?」
きょとんとしたエイジャに、タキシードが感慨深く、そしてちょっと嬉しそうに話を始めた。




