宿敵
タキシード探偵事務所。寝室の隅。クローゼットの中。
その奧の暗がりで、闇黒に溶け込んだ黒猫が一匹。
棚の上に畳んで積まれたエイジャの洗濯物の上で香箱座り。うとうともせず、影に潜んでじっとしている。これをやるとエイジャの服が毛まみれになるという、ある種の迷惑行為なのだが、ここが一番落ち着く。
タキシードは、たまにこうしていたくなる。
猫の耳は素晴らしい。だが、どこにいても色々聞こえてしまうのが玉に瑕。衣服には吸音効果がある。衣服だらけのクローゼットはタキシードの心を乱す雑音を消し去ってくれる安らぎのドーム。慣れた匂いしか感じないユートピア。ここは耳にシンとくるタキシードのメディテーション・スタジオ。
タキシード探偵事務所所長は今日も一人、この場所で瞑想に勤しんで明鏡止水に挑む。
――兄ぃ~。
何処からともなく妹の呼び声がする。兄の意識は今やニルヴァーナの彼方。入滅は間近。呼んでくれるな。お前の兄は今から安息の地に旅立つ。
――兄ぃってば~。
――……。
タキシードは目を閉じたまま大きく息をついた。無視しよう。エイジャに任せておけば良い。きっと上手いこと処理しておいてくれる。あれでできる子だ。
――レストレイドが兄ぃのお昼寝ベッドの上に座ったけど、いいの~?
クワッと、タキシードの目が見開かれた。
闇から忍び出した彼はトトトトトッと小気味よく寝室を駆け抜けた。
とっとことっとこ、事務所の奥から足を滑らせて応接室に登場したタキシード。急停止して身体を斜めに構え、キリッと目を吊り上げてイカ耳(耳をぺたんと後ろに倒した状態)になると、やんのか、おお? とでも言いたげなヤクザな眼光で睨め付けながら部屋に侵入してくる。
つま先立ちで総毛立ち、身体を目一杯大きく見せて威嚇しながら、ゆっくり歩み寄る彼の視線の先には、犬が一匹。
腹側が薄い茶色。鼻先と背中側に浮いた黒が特徴的な大型犬だ。あからさまな筋肉質で、口は大きく、足は太い。精悍な顔つきに賢そうな表情を浮かべるその大型犬がお座りしていたのは、窓の傍に置かれていたはずのタキシードのお昼寝ベッド(エイジャのお古に綿を入れてを縫い合わせたもの)の上だ。
「――レストレイド……わりゃぁ……戦争やでぇ……‼ 覚悟はできとるんやろうなぁ? おおっ⁉」
「所長……たまたまそこに良さげな場所があっただけッスよ。この子も悪気があったわけじゃねッス……へへっ……どうか、ここは穏便に――レストレイド、もういいよ」
応接ソファーに女が座っていた。エイジャの向かいで優雅にお茶をすすりながらその女が手招きすると、レストレイドと呼ばれた犬はさっと立ち上がって女の脇に移動してお座りし直した。その間、タキシードに一瞥もくれることはなかった。タキシードがギリリと歯を食いしばる。
「貴様の指示か……イノライダー……! 場合によっちゃあ、南バミューダ中の獣と事を構えることになるで……っ!」
「兄ぃは、こっちこっち」
ポンポンと膝を叩くエイジャ。タキシードはエイジャに歩み寄りながらも、その女から視線を外さなかった。
蓮っ葉な感じの女の名はイノライダー。南バミューダ警察殺人課の警部だ。
特徴的なのはその目。垂れ目ぎみで隈のある目つきは殺人犯を追うのが仕事です、というよりは殺人そのものが仕事です、とでも言い出しそうなほど病的。黒に近い深い紫の髪を、崩したシニョンでまとめた彼女は白いコートを着崩して、タイトなスカートの中から伸びた細い足を組んでいた。
どう見てもまともな人間ではないのだが、エイジャは自分と瞳の色が近いので紫仲間だと言って懐いている。
タキシードはエイジャの膝の上に乗ってイノライダーを睨みつけた。
「そんな……とんでもないッスよ。……あ、でも警察犬組織と極道猫軍団の抗争は、ちょっと見てみたいかもッスね。へ、へ、へ」
「兄ぃが早く来ないからだよ」
エイジャに咎められ、頬を両側からつままれてムニムニ上下に揺すられるタキシード。その姿を一瞥したレストレイドが鼻を鳴らした。
「あ、あぁ! 今あいつ、鼻で笑ったで‼ ちょっとおもて出ろやこらぁ! その鼻くっ付いてるの後悔するくらいきっついのお見舞いしたる‼」
「はいはい」
「エイジャ! この前の下着ドロの件も文句言わなあかん! こいつら警察の仕事サボりまくってんねんでっ‼」
「どうどう――それで、イノライダーさん。今日はどういったご用件で?」
殺気立つタキシードは、エイジャにねじ伏せられてギュウと呻いて静かになった。それを見たイノライダーがカップをコトリと置いて切り出す。
「――あ、そうッスね……実は、依頼したいことがあって来たッス」




