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浮気妻の追跡

 スンスン、スンスン――。


 タキシードは空気を嗅いで鼻を利かせながら緑色(グリーン)尖晶石(スピネル)通りのすみっこを歩いていた。


 油の焼ける香ばしさ、スパイスの香り、汗を初めとするその他諸々の体臭、ゴミのすえた腐敗臭、そして都市に潜む動物たちの獣臭。それが街の夜の匂いだ。


 浮気妻キャロルの匂い――そういえば、あの嗅がせてもらった布は何だったのか――は、感じる。だが色々混ざってしまっていてよく分からない。あれから時間が経って緑色(グリーン)尖晶石(スピネル)通りには人が増えてしまっていた。猫の嗅覚は野生で鍛え上げられた獣の精密さを誇るが、やはりその道の大御所である犬ほどは無理だ。


 タキシードが脇道を横切った時、彼はふと、その路地に溜まった影の中に一匹の猫を見つけた。タキシードはこれ幸いとその路地に入っていき、「なぁ」と鳴き声とも呼び声ともつかぬ声を出した。その猫は応じてタキシードに歩み寄り、二匹は鼻先をツンッとぶつけて挨拶を交わした。


 タキシードは動物と心を()わす。言葉を介した会話はできないが、身体に接触することで簡単な意思の疎通と感情の伝達ができるのだ。これは彼がスフィンクスであるから、というよりも、彼の習熟する〈マスタリー〉のひとつ、すなわち〈メッセンジャー・マスタリー〉によるものだった。


 タキシードはその猫と身体をこすり合わせながら、キャロルの見た目――白いズボンに縦ストライプのシャツ。癖のある黒い短髪に、茶色の瞳など――を伝えて見かけなかったか(たず)ねた。


 あいにく、その猫はキャロルを見なかったようだった。タキシードはお礼に耳の裏を舐めてやり、また通りに戻った。


 キャロルの匂いが先ほどよりも薄まっていた。こうなると、もう立ちんぼなんてしていないで、既に男を捕まえて行為を(いた)している可能性も視野に入ってくる。タキシードは別の路地に駆け込んでから翼をはためかせ、飛び上がって通りに面した店の上に出た。


 屋根から見下ろす緑色(グリーン)尖晶石(スピネル)通りは街灯の光を道が反射して緑一色に染まっていた。タキシードはそんな通りに立ち並ぶ建物の上階に目と耳を凝らしながら屋根の上を歩いた。


 連れ込み宿はマナーもあるし、あえてこういった場所で密談をしている場合もあるので、大半の部屋の窓は閉じられ、カーテンは締まっていた。人々は部屋に(こも)って扉と窓を閉め切ればプライバシーは保たれると安心して考える。しかし、タキシードの天性の聴覚にかかればそんなものは関係がない。この程度の距離と壁の薄さであれば、はっきり言って丸聞こえだ。


 タキシードが屋根の上をぴょんぴょんと飛び移り、立ち並ぶ部屋の様子をひとつずつ確認していく。キャロルの声は知らないが、そこはもはや探偵の意地と勘だ。部屋の気配を次々と探っていく。幸いまだ早い時間帯だからか、ほとんどの部屋が(から)っぽで嬌声(きょうせい)などは聞こえてこなかった。タキシードはちょっとだけホッとした。色区は、時間帯によっては彼の耳に毒となる。


 しばらくそうして探し回っていると、通りを挟んで向かい側、数少ない明かりの灯った部屋の中から、幸運にもそれらしい特徴の女を発見できた。その部屋のカーテンは開いていた。


 ――事後か? 事後なのか?


 他人事(ひとごと)ながらドキドキして部屋の中を窺い、前のめりに耳をぴんと立てて集中するタキシード。ベッドの脇にキャロルが座り、その横に男が座って彼女の肩に手を回そうとしていた。黒髪の男だ。


「……そう……それは……」


「……わたし…………もう……」


 どうやら、男がキャロルの悩みを聞いているフェーズのようだった。これは恐らくセーフだろう。タキシードはホッとしつつも、ここからどうすべきかと思案する。


 状況は切迫していた。男は悩みを聞く空気を(かも)しながらも、キャロルの黒髪を褒め、自分の髪と同じ色だなどと甘いトークに持って行こうと必死だ。タキシードには分かる。あの男は色男だ。タキシードと寝取られ“そうな”男ジョンソンには一刻の猶予(ゆうよ)もない。


 タキシードが店の裏口から忍び込もうかどうしようか考えていた、その時、幸運にもキャロルが立ち上がって部屋の窓を開けた。


 ――ここだ!


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