営業活動
「……吝い。吝いで、坊主」
「海を略すな、どら猫――はいよ、エイジャちゃん」
「ありがとうございまーす」
カウンターについたエイジャの前に置かれたのは金属製グラスになみなみと注がれた赤い液体だった。最近流行の錫という金属だろうか。それに比べ、タキシードの前に置かれているのは金剛石カップに入ったちょびっとのミルク――カップが深すぎて舌が届かない。しかもちょっと汚れてるし。
「……なぁ、あからさますぎちゃう?」
「やかましい。とにかく、今は依頼が無い。あればとっとと送ってる」
「そこをなんとか」
「……無いものをどうしろっていうんだ」
タキシードの隣のカウンターに座ったエイジャが、フェイスベールを取って飲み物に口をつけ、「これおいしい!」と声を上げると、バワーズはそちらに向いて何やら得意げに解説を始めた。その様子を横目で見ながら、鼻先をカップに突っ込み、必死に舌を伸ばしてミルクを舐めようと試みるタキシード。
――困ったな。
バワーズが嘘をついているとは思えない。探偵業が暇だと言うことは不景気なのか、あるいは世の中平和なのか。
タキシードはズボッと一旦カップから顔を出し、代わりに猫の手をカップに突っ込んで、その先っぽに付いたミルクを舌で舐めるという知恵を駆使してミルクにありついた。ぞーりぞーり。
「――あなたが……噂の探偵タキシードですか?」
唐突に、暗がりから声がした。
タキシードが舌なめずりしながら振り向くと、そこにはカウンターに突っ伏した男の客がいた。
それを見たタキシードの肩が小さく跳ねた。陰気が濃くて店の影に溶け込んでおり、気が付かなかったようだ。
「――お……おったんか」
軽くビビりながらタキシードが声を掛けると、その男はカウンターの上で頭を横たえたまま、だばだばと滂沱の涙をこぼし始めた。
精神的病の雰囲気を前に、普通の人間ならば無視するか席を変えるところだが、タキシードは探偵の嗅覚で金の匂いを嗅ぎ取った。彼はカウンターの上を歩いて近づき、突っ伏した男の頭をポスポスと肉球で数度叩く。
「にーちゃん頭大丈夫か?」
「うう……探偵さん……本当に喋るんですね……」
「おお、喋るよ。ぺらっぺらやで。ところで、どうかしたん?」
「うわあああん! 聞いてくださいよ、探偵さん‼」
突如泣きついてきた男の話を聞くと、どうも男の妻が浮気をしているかも知れないという。
男はジョンソンと名乗った。妻キャロルは先日からどうも素行が怪しく、本日出かける間際に問い詰めたら堂々と白状されたらしい。
「うっうっ、僕は……もう終わりだ……死にたい」
「ま、まぁまだ決まりってわけやないし……」
「そうそう! 売り言葉に買い言葉って言うから!」
エイジャがいつの間にか会話に参加していた。彼女はこの手の会話に目がない。
「そ、そうなんでしょうか……」
眉をへの字にして目を潤ませるジョンソン。そんな彼を見るタキシードの顔に、道ばたで鼠を発見したときのような悪そうな色が浮かんだ。
「そ、こ、で、や。こういうときのための探偵業ってもんでな。どや、にーちゃん、ワシを雇ってみんか?」
浮気調査。これが結構金になる。先日のアメリ事件に見たように、バミューダは性におおらかなせいで、この手のいざこざが絶えない。
「……でも、もし本当に妻が……だったら僕はもう……探偵さん、浮気ってよくあるんですか?」
「ありがち~」
「べたやなー」
エイジャとタキシードのハミングにジョンソンは再びテーブルに突っ伏して泣き出してしまった。情緒不安定にも程がある。既にカウンターの上には池が出来つつあった。
「相場やと……なんぼやっけ?」
「鉄貨三枚になりまーす! 調査期間によっては追加料金を頂く場合もございます!」
浮気はタイミングが掴めないため、長期張り付きが必要になり、必然的に単価が高い。だが、タキシードは自称、バミューダの夜の支配者なので、実はそんなに苦労のない美味しい依頼だったりもする。
「……分かりました。雇います! もう、これではっきりさせて楽になります‼」
「お、そのいきや良し、やで……それで? 嫁さんは、夜に出掛けてしまうん?」
「今‼」
調査に必要なヒアリングを始めようとしたタキシードに向かって、両目を血走らせた鬼気迫る剣幕でジョンソンが顔を寄せた。タキシードが勢いに押されて身体をのけぞらせる。
「――んん? ……え、いま? 今まさに⁇」
「妻は、今晩抱かれてやるって、捨て台詞を残して出て行きました‼」
「きゃー」
「あなたみたいに女々しい男より、ずっと雄らしい男引っ掛けてやるんだから! と……」
「きゃー」
両手で顔を覆うエイジャ――その反応はおかしいし、ちょっと酷いぞ、妹よ。
なんという深い寝取られ感。ジョンソンをあそこまで苦しめていた原因はリアルタイム寝取られ。彼の醸す陰気の正体は哀愁を通り越しての悲嘆。
見れば、カウンターの奥で耳を傾けていたバワーズもしかめっ面になっていた。
流石に同情したタキシードは、やる気になった。
「……このまま行くか」
タキシードは浮気妻キャロルの特徴をジョンソンから聞き、匂いのサンプルをもらってカウンターから降り立った。彼の家の位置から考えて、可能性が高いのはこのすぐ近くの緑色尖晶石通りだろう。だからジョンソンはそこに近いホエールスで飲んだくれていたというわけだ。
「ほな、緊急依頼っちゅーことで、追加料金として晩飯おごりな。エイジャ、その寝取られ男から飯おごってもらいや」
「はーい」
「寝取られてませんっ! まだ……」
言葉尻がしぼんだのが気になってタキシードが振り向くと、涎を口の端から垂らしてメニューを眺めるエイジャと、タキシードが動き回ったカウンターをふきふき綺麗にしているバワーズ。そして再びカウンターに突っ伏してしまったジョンソンが目に入った。
――まぁ、やめるよう説得くらいはしてやるか。
タキシードはそんなことを思いながら、ホエールスの窓からすっかり暗くなったバミューダの夜に身を躍らせた。




