25 怪異の掃除人は狂気と笑う
呪文は使えない。召喚呪文を阻止する際の負担を考えれば、少しでも温存しておかなければならないからだ。だがそうなると、息つく暇も無く襲いかかってくる教団員に対抗する手段が、今の曽根崎には無くなってしまう。だから、彼は景清を抱えたままでひたすらひらりひらりと追手をかわしていた。
しかし、教団員は壇上へ行かせまいと立ち塞がってくる。仕方なく、曽根崎は身を翻して遠回りすることにした。
――教祖の反応を見るために手の内を明かしたが、こうなると悪手だったのかもしれない。
曽根崎は、未だ意識の戻らない景清を落とさぬよう、腕に力を込め直した。
「行かせるものか」
暗闇から現れた教団員が、曽根崎に飛びかかる。なんとかそれは避けるも、彼はがくりとバランスを崩してしまった。一人なら何とでもなるが、今はそうではない。景清をかばい受け身を取って転がった曽根崎だったが、顔を上げる間も無く後頭部を強かに蹴られた。
感じる痛みは薄い。しかし、だからといってダメージが軽減されるわけではない。視界が揺れたが、腕を伸ばして自分を蹴り飛ばした足を掴むと、無理矢理引き倒した。
その間にも、容赦の無い暴力が襲いかかる。殺しても構わないと教祖から指示が出ているのだ。当然である。景清を盾にすればヤツらは手を出せないのではと一瞬考えたが、ほぼリンチ状態となった今では彼の命も危ういかもしれないと判断し、やめた。
背中に受けた強い衝撃に、一瞬息が止まる。咳と共に口から出た血が、辺りに飛び散った。
……自分が思っているより、この体はまずい状態なのかもしれない。
どこか他人事のように、曽根崎は思った。
「これで最後だ!」
勝ち誇った声が響く。――いよいよ、万事休すだ。さて、どうしたものか。
次の手を考えあぐねていたその時、突如として真っ白な光が部屋一面を照らした。その光に目を眩ませ、教団員は皆動きを止める。しかし、光に強い漆黒の瞳を持つ曽根崎は、それを好機とすかさず景清を抱え直し、壇上に向けて床を蹴った。
「待て……!」
手が伸びてくる気配がする。思うように体が動かない。そういえば、足が重たいな。
だが、振り返らずに前進する。曽根崎は、敵の背後に苦労性で愛すべき彼がいると知っているからだ。
「本来なら、現行犯逮捕なんだけどな」
その白装束は、警棒を持っていた。
「俺も人には言えないレベルの事をするから、今は見逃してやるよ」
確かな重さを持った警棒は、的確に教団員の腕を叩き武器を落とさせる。教団員の悲鳴を後ろに聞きながら、曽根崎は走った。
景清から、笑い声と表情が消えている。きっと、龍三郎を追い出しかけているのだろう。
流石、私が信じた君だけのことはあるじゃないか。
ならば、これしきの事で私も負けていられないな。
「器を返せ、不浄め……!」
壇上に足をかけようとした時、待ち伏せていた教団員が曽根崎の頭を狙って斧を振り下ろしてきた。間一髪後ろに飛び退くも、意外に速い動きで教団員はまた斧を構える。
顔を上げて彼を見た曽根崎は、つい警告が口を突いて出た。
「危ない!」
「あ? そりゃ殺そうとしてんだから危ないに決まって……」
「バカね」
ハスキーで艶やかな声が割って入る。次の瞬間、横から飛び出してきた絶世の美女が、教団員の腹部にバールを打ち込んだ。
猛烈な一撃に倒れた男に、彼女は美しい片足を乗せ、一本の乱れも無い長髪をかきあげた。
「なぁに敵にボクの事教えてあげてんのよ。ホントに状況わかってんの?」
「……君だと、相手を殺しかねないだろ」
「死んでないでしょ? じゃあいいじゃない。ほら、早く行けば?」
そう言いながら、柊は曽根崎の後ろにいた教団員にバールを向ける。哀れな教団員は小さく悲鳴をあげたが、逃げる前に柊のしなやかな腕に捕まった。
「曽根崎さん!」
あちこちで起こる混乱に紛れ、よく知る声がした。ようやく登った壇上に隠れるように、藤田が手招きしている。
「すいません、ライトをつけるのに手間取って……! 大丈夫……じゃなさそうですね」
「いいや、大丈夫だよ。お陰で助かった」
「祭壇の裏に秘密の抜け道があるんです。どうか二人で、あそこから逃げてください」
「いや、その前に召喚を止める。施設全体に最大音量で届くよう、マイクの調整をしてくれ」
「わかりました。すぐに準備します」
藤田は頷き、マイクの用意に取り掛かった。……マイクは、信者の前で説教をする際に使われるのだろうか。その向こうには、炎によく似た不気味な像と祭壇が設けられていた。少し手前には、一人分の人間を寝かせられるような敷物が敷いてある。
本来であれば、拷問を受け精神を壊された景清が、そこに横たわるはずだったのだろう。忌々しく思いながらも、曽根崎は心を落ち着ける為に深呼吸した。
やがて、準備を終えた藤田がこちらに走り寄って来る。
「できました、曽根崎さん。オレは、壇上に登ろうとするアイツらを止めてきます」
「ありがとう。無理はするなよ」
「ええ。召喚も景清も、どちらもよろしくお願いしますね」
藤田はナイフを取り出し、笑った。だがそれも束の間のことで、彼はすぐ真顔になるとその身を敵の中に踊らせた。
曽根崎は、演台に置かれたマイクの前に立ち、もう一度深呼吸をする。そして、ゆっくりと景清を床に下ろし、耳をそばだてた。
音の列を把み、脳内にあるクトゥグア召喚の呪文書と照らし合わせる。――失敗は許されない。ここまで詠唱が進んでしまえば、逆さ語をぶつけるタイミングは、数秒後に訪れるただ一瞬しか無い。
聴覚に全ての神経を集中させる。正式な呪文ではない逆さ語を唱えようとするただそれだけが、今の曽根崎にとっては大きな負荷だった。その上、多対一でぶつけるのである。召喚阻止に成功したとしても、再び正気に戻って来られるかどうかはわからなかった。
しかし、やらねばならない。
何故なら、私は怪異の掃除人なのだから。
「――さあ、この怪異も、綺麗さっぱり無かったことにしてやろう」
持ち上がる口角から、人語ではとても解釈できない世にも不気味な音が落ちる。その音の塊は、スピーカーを通して、施設内の隅々まで響き渡った。