9 三万円
僕は夢を見ていた。
温かい靄に包まれているような、心地よい夢。できることなら、ずっとここに立ち尽くしていたい気持ちになってくる。
ふと、遠くに誰かの姿を見つけた。
それは清楚な格好をしたセミロングヘアの女性で、にっこりと微笑んでいるようだった。彼女は手を後ろに回し、足はきちんと揃え、僕の様子を伺うように少し体を傾けている。
この居心地のいい場所で、あの人と話せたらいいな。
そんなことを思っていた。
「忠助、止めてくれ!」
日が落ちて闇が広がりつつある空の下、何かに気づいた曽根崎が阿蘇に声を張り上げた。阿蘇はすぐブレーキを踏んで道路脇に車を停めるも、曽根崎はその前にシートベルトを外し身を外に踊らせていた。
「景清君!」
彼が走り向かうのは、一人倒れている青年の元。曽根崎は景清を抱き上げると、声をかけながら揺さぶった。
「景清君! 大丈夫か!」
「……う……」
声を漏らし眉間に皺を寄せる景清に、曽根崎はひとまずホッと息をついた。
ふと彼の手に握られた何かに目が止まる。指を一本一本剥がしなんとか取り出したそれは、何も書かれていない一枚の黒い紙切れだった。
――やはりアイツの仕業か。曽根崎は、怒りに奥歯を噛み締めた。
「兄さん」
追いついた阿蘇が、曽根崎の後ろで青ざめている。曽根崎は慌てて片手を振った。
「眠ってるだけだ。命に別状はない」
無論、今のところは、だ。曽根崎は、彼の身にこれから起こるであろう事を想像し、しかし打ち消すよう頭を振った。
「とにかく、彼の目を覚まさせなければ。忠助、何かあるか」
「突然言われてもな。俺も兄さんも、どっちかってぇと気絶させる方が得意だろ」
「物騒な事を言うんじゃない」
頬をぺちぺち叩くも、景清は目を覚まさない。水でもかければいいのかもしれないが、あいにくそんな都合のいいものはなかった。
どうすれば彼を覚醒させることができるだろうか。少し考えた曽根崎は、ある思いつきを実行することにした。
景清を引き寄せ、耳元で囁く。
「――ただ今、ボーナスタイム実施中。今から一時間、私曽根崎の元で家事等のヘルプを引き受けてくれる人に限り、三万円を進呈します」
「やります!!」
よし、起きた。目覚めた景清は道端で曽根崎に抱き起こされている事に気付き、混乱したように辺りを見回している。
「いや、景清君、どんだけだよ……」
阿蘇が呆れたように呟いたが、曽根崎は気にせず景清に話しかけた。
「景清君、おはようさん」
「曽根崎さん? なんでここに……」
「後でまとめて説明する。君、体は大丈夫か」
曽根崎の言葉に、景清は気まずそうに黙ってしまった。――大丈夫ではないんだな。まあ、そんなとこだろうと思っていた。
曽根崎は景清の腕を掴むと、立ち上がらせる。
「詳しい話は後で聞く。とりあえず、事務所に帰るぞ」
「いや、ええと、僕は自宅に帰ろうと思うのですが……」
「何言ってんだ。君はもう十分首を突っ込んでいる。今更学業に専念できると思うなよ」
「……すいません」
「謝ることはない。ただ、色々と聞かなければならないことがある」
景清は、見るからに落ち込んでいた。普段あまり見ることのない態度なので、曽根崎はむしろ興味深く彼を観察する。
「……君でもそんなしおらしい顔をするんだな」
「……そりゃ、するときゃしますよ。むしろ他の人よりするぐらいです」
「じゃあなんで私の前ではしないんだ?」
「なんででしょうね。お心当たりは?」
「無いなあ」
「無いわけないでしょ。胸に手を当てて考えてみてください」
「誰の胸に?」
「他でもないアンタの胸に決まってるでしょうが!むしろ、阿蘇さんとかの胸に手を当てて何が自覚できると思うんですか」
いつもの景清の調子に戻ってきたところで、曽根崎はニヤリと笑って車へと歩いていく。景清はここでようやく自分が乗せられたのだと気づき、悔しそうに憎まれ口を叩きながら後をついていった。
すぐに事務所に戻った方がいいのだろうと判断した阿蘇は、一足先に車に戻りエンジンをかけていた。助手席に乗りながらお礼を言う曽根崎に、首を横に振りながら返す。
「兄さん、すごいな」
「何がだ」
「景清君が一瞬で元気になったぞ」
「そうでもないよ。まだ様子が変だ」
「そうか?」
「うん。ま、その辺りも事務所で話して、今後どうするかを決めないとだが――」
その時、曽根崎のスマホから着信音が鳴った。曽根崎は景清がちゃんと車に乗り込んだ事を確認してから、通話ボタンを押す。
「……藤田君?」
電話の相手は、藤田だった。しかし、こちらもいつもと様子が違う。曽根崎はしばらく黙って向こうの話を聞いていたが、唐突に割って入り提案した。
「わかった。今から忠助を向かわせる」
「なんで俺?」
「忠助、藤田君はこのマンションの七階の747号室にいる。訪ねて彼をここに連れてきてくれ」
「聞けよ」
曽根崎が話を聞かないのはいつものことだが、それにしても強引である。迷惑そうな顔をする阿蘇に構わず、彼は続けた。
「どうも藤田君は混乱しているらしい。最悪気絶させていいから、頼んだ」
「景清君の時の対応とは180度逆だな? ああもう、次から次へとお前は俺をこき使って……!」
「後でダイヤのネックレス買ってあげるから」
「いらねぇよ! っていうか兄さんが行けばいいだろ!」
至極もっともな正論を述べる阿蘇を振り返り、曽根崎は言い切った。
「あの部屋二度と行きたくない」
「そんな部屋俺も行きたくねぇよ!」
哀れみの目を向ける景清に見送られながら、阿蘇は渋々車から降りる。幼馴染の関係性がそうさせるのだろうか。それにしても不憫である。
その数分後、半裸の藤田を抱えた阿蘇がマンションから出てきた。
気を失った藤田を乱暴に後部座席に押し込む阿蘇を見ながら、恐る恐る何があったか尋ねようとした景清だったが、あまりの彼の剣幕に結局口をつぐんでしまった。
しかし景清は、その時阿蘇が言った一言を生涯忘れることはなかった。
「去勢って素人でもできるかな」
できないです、できないと思います、できたとしてもやめてください。助手席で手帳を見返す曽根崎の後ろで、景清は必死に阿蘇を引き止めていた。