5 504号室の和泉さん
その翌日の昼下がり、曽根崎は藤田と病院前にいた。阿蘇は、仕事の都合で途中から合流するという。
「……彼女、あのまま帰して良かったんですか?」
スキニーパンツのポケットに手を突っ込んで、藤田は曽根崎に問いかけた。対する曽根崎は、相変わらずきっちり着込んだスーツの中で、頷く。
「明確な症状が出るまで、恐らく一日二日はかかるだろう。それまで彼女の寝顔を見続けるより、こうして解決策を探った方がいい」
「それもそうですね。彼女には何かあればすぐ連絡するよう言ってますし……。じゃあ、行きましょうか」
そう言うと、藤田はさっさと歩いて受付に向かった。――こうして見ると、やはり二人はよく似ている。
曽根崎は、今はこの場にいない、とある青年を思い浮かべた。
「すいません、504号室の和泉さんのお見舞いに来たんですが……。ええ、そうです。小さい頃からお世話になってて……。お姉さん、貴女とても指の形が綺麗ですね。よく褒められませんか? ああ、そうですか。この手を繋いで歩けるなら、オレはその日一日幸せな気分になれるんですけれど……」
中身以外はな!!
曽根崎は藤田の悪事を止めるため、早足で受付にその身を運んだ。
精神病棟に行くのは、二人にとって初めての経験だった。
まず眼前に広がるのは、無機質な廊下。その両脇には、一定の間隔をあけて扉が並んでいる。圧迫感を覚えるのは、所々に逃亡防止のドアが設置されているからだろう。
先頭を歩く職員の歩みが、ある扉の前で止まった。扉の上部につけられたプレートには、「504」と書かれてある。
「和泉さんのお部屋はこちらです」
そう言うと、職員は鍵束を取り出しドアを開けた。
「私は外で待っていますので、終わったら声をかけてください」
曽根崎らは室内に足を踏み入れる。個室ではあったが、ベッドが置いてあるだけの簡素な部屋だった。そのベッドの上に、点滴に繋がれた一人の女性が横たわっている。
曽根崎は最初、彼女は眠っているのだと思った。
しかしその直後に彼は自分の思い違いに気がつく。
――美知枝は、開き切った目を天井に向け、硬直していた。引っ切り無しに何事かを呟く、その口元以外は。
「和泉美知枝さんですね」
曽根崎は美知枝のベッドの隣まで行き、声をかける。だが、反応は返ってこなかった。
ならば、と彼は彼女の口元に耳を寄せる。異常なまでに早口で大変聞き取りづらいものではあったが、かろうじて彼女の言葉をいくつか拾うことができた。
――あしがないあしがないああうでもないうで、うで、あし、くび、ないないないないないないない。
それは、まるで蛇がのたくるような苦悶の呪詛だった。
「話に聞いた通りだな」
その異様な姿に、知らず知らずの内に曽根崎の顔には笑みが広がる。
掛布団の上から確認するに、確かに手足はしっかりと存在している。ただ、指先がぴんと強張ったように伸びていることだけ、奇妙だった。
「かなりひどい衰弱状態にありますね」
曽根崎の横で藤田が言う。彼女の髪の根元は全て白髪になっており、目の下には曽根崎と同じくらい濃い隈ができていた。
「……藤田君はどう思う?」
「余裕で抱けます」
「すごいな君。いやそうじゃない。涼香さんと照らし合わせて、何か気づく事は無いかと聞いてるんだ」
「うーん……特に思いつくことは無いですね。娘さん達ならば何か気づけたのかもしれませんが」
その時だった。今までただ虚空を見つめるだけだった美知枝の目が、ギョロリと藤田を捉える。それに二人が反応する前に、聞くに耐えないガラガラの声で彼女は叫んだ。
「私に娘などいない!!」
だが、それだけだった。叫び終えると、糸が切れたようにまた彼女は虚空を見つめる目に戻った。
驚いて何も言えなくなった二人は、慌てた職員が数人部屋に入ってきた所でようやく我に返る。
「ちょっとすいません」
美知枝の主治医らしき男性に、曽根崎は声をかける。男性は振り返ると、曽根崎の怪しげな風体を見て微かに嫌そうな顔をした。
しかし彼は当然気にしない。
「美知枝さん、大丈夫なんですか?」
「まあ今のところ、良くも悪くもなってませんよ。入院当初と変わりません」
「……彼女の他に、同じ症状の患者がいると聞きましたが」
「そんな話も聞きますね。もっとも、詳細は目下調査中でまだはっきりした事は言えませんが」
「そうですか。ありがとうございます」
聞いたタイミングが悪かった為か、ここでタイムアップとなった。二人は間もなく病室を追い出され、仕方なく病院の外に向かう。
雲一つない青空が広がる下で、曽根崎はやっと顔の筋肉を緩めることができた。入り口に設置された自販機の前まで行き、千円札を入れて藤田に尋ねる。
「藤田君、何飲みたい?」
「コーヒーのブラックで」
「君、甘党じゃなかったっけか」
「それ阿蘇の方でしょ。オレは苦い方が好きです」
「そうか」
「はい」
何となく、藤田の元気が無いように曽根崎は感じた。
……知人の母のあんな姿を目の当たりにしてしまえば、それも無理からぬことかもしれない。
ベンチに座って缶コーヒーを手渡しながら、曽根崎は自分もプルタブを開けて缶に口をつけた。
「曽根崎さん、何飲んでるんですか?」
「コンポタ」
「そんなすぐ飲んで火傷しません?」
「あんまりわからないんだよな。忠助には舌が鈍いって言われるけど」
「あー、ディープキスが盛り上がらないタイプだ」
「そうなのか? いや決めつけるなよ。すっごいかもしれないぞ、逆に」
「試してみます?」
「絶対嫌だ。私の預かり知らぬところで勝手にやってくれ」
「つれないなぁ」
「大体君なら相手に不足しないだろ。近場で調達するんじゃない」
「近場は近場の良さがあるんですよ」
「知ったことかよ。塩撒くぞ」
ちょっと元気が無いかと思ったが、いつも通りだった。むしろ絶好調じゃないだろうか。
束の間、現実から逃げるような会話の後、曽根崎は本題に入る。
「……これは仮説なんだが」
「あしとりさんのですか? 何かわかりましたか」
「まああくまで私の想像だけどな。あしとりさんは、人から人へ乗り移っているのだと思う」
対する藤田は、やっと一口コーヒーを飲んで答える。
「人から人へ?」
「そうだ。つまり、噛まれたら噛まれるだけ広がるゾンビタイプじゃなくて、一人ずつ取り憑いて呪い殺していく怨霊タイプだといえる」
「ああ、なるほど。つまり一定の症状まで進んだら、次の対象へと移るんですね」
「その通り。入院してから、美知枝さんの症状が進行していないことが証拠だろう。そうなると、もう和泉美知枝さんの体にあしとりさんはいないという事になる」
それが一体何を示すのか。藤田は、片手で前髪をぐしゃりと掴んだ。
「……じゃあ、一度あしとりさんに取り憑かれたら、二度と正気に戻る術は無いと?」
「そこはまだわからん。調査が足りない」
「どう調べるというんですか」
「一つだけアテがある。忠助からもらった、患者の資料を見ていてわかったんだが――」
曽根崎が言いかけたところで、藤田のスマホが鳴った。その画面に表示された名は、まさに昨日会った女性のものだった。
「……どうしたの?」
通話ボタンを押し、涼香に問いかける。電話の向こうの声は、ヒステリックに泣き叫んでいた。
「――わかった、今から行く。すぐ着くから、安心して待ってて」
そして、スマホから顔を上げた藤田は曽根崎に言った。
「また、夢にお母さんが出たそうです」
「それであんなに泣いていたのか?」
「まさか」
藤田は勢いをつけるようにコーヒーを煽り、息を吐いた。
「――とにかく、彼女の家に行きましょう。オレが話すより、直接聞いた方がいい」
藤田の横顔は、青ざめていた。ただならぬ彼の様子に、曽根崎はそれでも問いかける。
「藤田君、あしとりさんが正体を現したんだな?」
「……ええ、恐らくは。そして、彼女はこうも言っていました」
目を瞑り、藤田は缶を握りつぶす。
「次に見る夢で、母は私の元に来てしまう、と」
ああ、急がなければ。
曽根崎と藤田は、その言葉を最後にベンチから立ち上がった。