2 君は帰れ
あしとりさん。
その名を、僕は三条から聞いたことがあった。
「ねぇ景清、あのー…あれだよ。今ネットで話題の、手取り足取り教えてくれる優しい妖怪の話なんだけどさ。あれ? 違ったっけ。優しくないわ、優しくないんだ。すげぇ怖いの。でも名前なんだっけなー、とにかく怖ぇの」
嘘だ。何も聞いた事が無かった。アイツ本当に教師になる気があるのだろうか。
さっぱり情報が無い僕は、お盆をテーブルに置きながら藤田さんに尋ねる。
「藤田さん、あしとりさんって何ですか?」
「ああ、景清は知らないんだね。今、ネットでまことしやかに囁かれてる都市伝説の一つだよ」
「都市伝説?」
「そう。なんでも、夢の中だけに出てくるお友達なんだって」
それだけ聞くとロマンティックな話だ。しかし、あしとりさんという名前からして、それだけでは無いのだろう。
「あしとりさんは、いつも満面の笑みでこちらを見ている。その腕は後ろに回して、足はお行儀良く揃えて」
「ふんふん」
「で、あしとりさんは遊ぶ事が大好きなんだ。中でも謎々が好きで、夢を見ている人にも出してくる。その謎々に答えることができればいいけれど、もし、できなかったら――」
ここで、藤田さんは言葉を区切る。そして、僕の唇に自分の人差し指をあてた。
「――あしとりさんは、体の一部を食べてしまう」
強めに彼の指を払いのける。……内心、少しゾッとしてしまったのだ。それをごまかすように、藤田さんに噛み付く。
「でも、そんなのたかが都市伝説でしょう。おおかた話の上手な人が、匿名で大型掲示板やSNSに載せたのが話題になったんじゃないですか」
「ところがそれで終わらないんだ。何故なら、実際に不可解な症例が出ている」
「症例?」
頷く藤田さんに代わり、阿蘇さんが続きを引き受ける。
「……この辺りの病院で、同じ症状の精神病を患う患者が続出してるんだ。五体満足にも関わらず、足が無い、腕が無い、果ては内臓が無い、と言い出す人たちが」
なんだそれ。
背筋が寒くなり、思わずソファーに寄りかかる。
藤田さんは片手を振り、ため息をついた。
「まだ叫ぶことができるだけいいよ。オレが聞いた話じゃ、無言のまま苦悶の表情を浮かべて床をゴロゴロ転がり続ける人がいるらしいから」
「それは……どうしてですか」
「わからない。わかるのは、この症状は、今でも着実に広がっているってことだけだ」
だからこそ、事態を重く見た何者かから曽根崎さんに連絡があったのだろう。曽根崎さんに目を向けると、彼は薄く笑みを浮かべていた。
怖いんだろうなあ。大丈夫だろうか。
曽根崎さんは、ソファーに深く腰掛けて、覚悟を決めたようにお茶を一気飲みした。
「……忠助、各患者の情報はあるか?」
「ある。持ってきた」
「じゃあまずはそれから目を通す。ああ、景清君」
「はい」
急に名を呼ばれ、背筋が伸びた。曽根崎さんはじっと僕を見て、言う。
「君は、もう帰りなさい」
「――は」
いきなりどうした。
言葉を失った僕に、彼ははっきりと告げる。
「今回はまずい。未だ症状が広がっている点を考えると、君が感染してしまう可能性も十分あり得る。しかも、どうやら前回のように応急処置が効くものでも無さそうだ」
「……いや、だけど」
「駄目だ。人手は足りている。あと私の世話係も」
「おい」
世話係に任命された阿蘇さんがすかさず突っ込んだが、曽根崎さんは僕から目を離さない。
「君は、しばらくここに来てはいけない。学生らしく学業に専念するんだ。いいね?」
――何を、勝手なことを。
そもそもなんでこいつ、僕が首突っ込む前提で話してんだ。今まで金チラつかせて引っ張って来やがったのは、アンタの方だろ。
アンタに言われなきゃ、僕だって――。
つーか前回も前々回も僕がいなきゃヤバかったくせに、どうして上から目線なんだよ!
怒りが沸々と滾り、しかしどうぶつけていいかわからず、僕は中指を立てて叫んだ。
「バーーーーーーカ!!!!」
チクショウ、僕は小学生か!
ええい、ここは逃げる! 覚えてろよ曽根崎!
ドアを叩き割る勢いで開け、僕は階段を駆け下りていった。
「……クソ兄」
「……なんだ」
「自分で言いだしといてダメージくらってんじゃねぇよ」
「くらってるわけないだろ。何言い出すんだまったくこの弟はまったく」
「曽根崎さん、めちゃくちゃ怒った顔してますよ。泣きそうなんじゃないですか」
己の癖をよく知る二人から痛いところを突かれ、曽根崎は肩を落とした。
……言うにしても、もっと他に方法は無かったものか。
だけど、中途半端に言ってしまうだけでは、きっとまたあのお人好しの青年は事件に介入してしまうだろう。今まではそうなっても守れるよう、できるだけ近くに置いていたが、今回ばかりは保証をしかねる。自身の勘が、そう言っていた。
や、今まで助けられた事の方が多い自覚はあるよ。ちゃんとある。
「……兄さんの判断は正しいと思うよ」
洞察力の高い阿蘇は曽根崎の考えを読み取り、ぶっきらぼうに慰める。
「景清君は危うすぎる。この前一緒にいて思ったが、自殺願望でもあるんじゃないかってぐらい我が身を顧みねぇ。あんな事繰り返してたら、遅かれ早かれ潰れるぞ」
「……だよなぁ」
それは、曽根崎も常々感じていた事だった。景清は、それほどまでに自尊心が低い。恐らく、それが高じてあのお人好しが形成されているのではないかと曽根崎は推察していた。
しかし、そんな二人を交互に見比べていた藤田が、意外そうに口を挟む。
「危うい? そうかなあ」
「どうした藤田。あの子の事ならお前がよく知ってるだろ」
阿蘇の問いかけに、藤田は首を縦に振る。
「知ってるからこそだよ。景清、元気になったなーと思ってさ」
「元気に?」
「うん。少なくともオレの知る景清だったら、さっきの曽根崎さんの言葉にあんな対応はしてないね」
そう言いながら、彼は曽根崎に向かって中指を立てた。
「……五年前の景清だったら、自分が必要とされてない事に絶望して、そんでも諦めて、何も言わずに帰ってたと思うよ」
「……」
「曽根崎セラピーが成功してるんじゃない?わかんないけど」
「なんだその荒療治」
「オレも言ってて思った。水が怖い人をマリアナ海溝に沈めて、ただの水には慣れさせるレベルの蛮行」
「三十路を貶めて楽しいか?君たち」
事務所を出て行く寸前の景清君の顔を思い出す。悔しさと怒りがないまぜになった表情は、ここのアルバイトに来たばかりの頃は、確かに見る事のなかったものだった。
――だけど、私の懸念はそれだけではないのだ。
曽根崎の脳裏に、空中に浮かぶ口が蘇る。
――これ以上、彼を巻き込んではいけない。
――彼らしく生きることができ始めたというなら、尚更だ。
曽根崎は、誰にも胸中を悟られぬよう、阿蘇の持ってきた資料に顔を埋めた。