第42話 これって勝利なのか!
強敵バアル=ゼブルは去った。
[今日はこのくらいで勘弁しといてやる! 次に会った時はただじゃすまさねえぞ!]
「ああっ! お兄様お待ちになって!」
そう捨て台詞を吐いた彼は、ガマガエルのように地面にへたり込んでいたケロリーナを素早く引っ掴むと、制止の声を発するフィーナを無視して姿を消したのだ。
「今のバアル=ゼブルお兄様のお言葉は、次に会う時までにこの原画をアスタロトお姉様にも見ていただけるレベルに仕上げろという激励っぽく聞こえたわ! わかりましたお兄様。このフィーナ、これから心血を注いできっと仕上げてみせます!」
「絶対に違うと思うんだけど聞いちゃいねえ」
クレイがジト目で見つめる前で、宙に浮かんでいたアーカイブ術のプレートが金色の粒子と姿を変え、フィーナの体の中に吸い込まれて行く。
だがクレイは消える直前に見てしまっていた。
プレートには迫りくる死に怯えるように(そうに決まっている)目をつぶってうつ伏せになっているバアル=ゼブル。
そしてその背後からのしかかり、多分きっといや絶対にバアル=ゼブルを討ち取ろうとしているそうであってほしいエンツォの姿が書かれていたのだ。
(どうしてこうなった)
クレイは天を仰いだ。
魔族の中でも屈指の強さを誇る強敵を退けたにも関わらず、胸に拡がるのは充実感ではなく喪失感。
自分の力が色々なことに及ばなかった結果に、クレイは心の中で嘆き始める。
[ピュイ? どうしたのクレイ、セイもう檻から出たから心配しなくていいよ?]
「ん、大丈夫だよセイ姉ちゃん。ちょっと疲れただけ」
その姿を見て心配するセイレーンの少女、セイを安心させるようにクレイは微笑むと、遅参を詫びるエンツォへ助けてくれたお礼を言って後の処理を一任し、フィーナとともにローレ・ライを運営する評定衆の筆頭、ブルックリンの屋敷へ向かった。
一方バアル=ゼブルのほうは。
[テメエが前にローレ・ライで色々とやったせいでひでえ目にあったぞオイ! 聞いてんのかアスタロト!]
上から降り注ぐ木漏れ日すら眩しく感じられる深い森の中で、木に背中を預けて座り込んでいた一人のキラキラした人物に向かって怒鳴り声を上げていた。
[んもー、戻ってくるなり何なんだい。そんなことよりそっち引っ張ってよ。キミの帰りが遅いせいで服にシワができちゃったんだからね]
陽光を反射する小片が、白を基調とした上着とズボンのあらゆるところに縫い付けられている、声から察するに女性と思われるその人物の名はアスタロト。
魔族を構成する種族の一つ、堕天使たちを統率している実力者にして、旧神バアル=ゼブルの姉にあたる人物である。
[お、おう……]
そのせいであろうか、アスタロトが発した願いをバアル=ゼブルは逆らおうともせずに、彼女が着ている服の背中部分の裾を引っ張りはじめる。
しかしアスタロトは髪を男性のように短く切っており、当然ながら彼女のうなじ、首から肩にかけての滑らかなラインがバアル=ゼブルの眼に入ってきてしまい。
(変なヤツだが昔から色気だけはあんだよなぁ……あ、服が破れたわ)
その瞬間にバアル=ゼブルの意識は上の空となり、持っていたアスタロトの服の裾が千切れてしまう。
(まじぃなコレ。とりあえずマントを着せて誤魔化すか)
そしてすぐに謝罪ではなく隠蔽工作を思い付いた彼は、切れ端を懐に捻じ込みアスタロトの背中に声をかけた。
[そういやお前さんのほうの目的はどうなったんだ? 前にアルバトールの奴と戦った時にマントを切られて、そんでお前さんが中に飼ってたドラゴンメイドがビックリして逃げて、それを捕まえに行ってたんだろ? 首尾はどうだったんだよ]
[うん、なんとかうまく戻って来てくれたよ。これで次にアルバたんと戦う時には本気を出してあげられるね]
[あー……そいつはちょっと難しいかもしれねえな]
[どうしたの? あ、マントありがとね]
顔をしかめ、黒いマントを差し出してくるバアル=ゼブルをアスタロトは不思議そうな目で見つめる。
[俺たちが王都に封印されている間にアイツらの方でも何かがあったらしい。ベルトラムとガブリエル、その後に――]
[ガブリエルじゃなくてガビーだよ、バアル=ゼブル]
背中にいるバアル=ゼブルへ振り返り、人差し指を口に当ててウィンクをするアスタロトをバアル=ゼブルは眉をしかめて睨み付ける。
[あぁ? ……ああ、エルザと交わした盟約って奴か。とりあえずその後にクレイって天使のガキと戦ったんだが、どうもその三人と交わした会話の内容を総合するに、アルバトールのヤロウに何かがあったらしい。ついでにエルザにもな]
[へぇ? アルバたんが復活の儀式で色々と考え込んで迷ったせいで両親とエルザが散華して、王女と王妃がボクたちを王都に封印するために結界に身を変えてしまった。その結果感情を失ったって話?]
[なんだそりゃ。つーか何でもう知ってんだよ]
[そりゃメリュジーヌを探すために色々と情報を集めたんだから、その途中で何度も耳に入ってきたさ]
[そうか]
バアル=ゼブルは短く呟いた後、森の中から空を見上げようとする。
しかし周囲には森の木々があり、頭上では無数の枝と葉が彼の視線を遮り、それを避けようとすれば地面に納まりきれない木の根が歩みを妨げ、彼の邪魔をした。
[……結局世の中、なるようにしかならねぇ、か。そんじゃ帰るぜアスタロト]
[はいはーい……あ、そうだ]
アスタロトは何かを思いつくと、近くでへこたれていたケロリーナのおでこを人差し指で軽く弾く。
するとケロリーナはすぐに目を閉じ、濁ったいびきをかきはじめていた。
[ごめんねー、キミまだ信用ができないからさ。それじゃバアル=ゼブル、また陽動の騒ぎヨロシクね]
[おいまたかよ。つーか普通にカ・トゥ・カレー海峡の下に掘ったトンネルを通って帰ればいいじゃねえか]
[それじゃこっちでの活動がバレた時にどうやって帰ったのか捜索されちゃうよ。いつか切り札としてこのトンネルを使う時のためにも、陽動の間にこっそり渡海されたんだって思わせておかないとね]
[わーったよ。しっかしお前さん王都でもそうだが、ホント穴が好きだよな]
バアル=ゼブルはそう返事をするとそそくさと姿を消し、それを見送ったアスタロトもまた地面に黒い水たまりを残して消える。
しかし数分後、どこからともなくバアル=ゼブルの悲鳴が響き渡り、そして森はようやく静寂が包むものに戻って行った。
その頃、港町ローレ・ライのブルックリン家では。
「どうしてこんなになるまで放っておいたの?」
会うなりクレームを入れてきたクレイに、屋敷の主であるブルックリン――天使カマエル――が気分を害した様子もなく笑い声を上げていた。
「ほっほ、来るなりお小言とは相変わらず元気じゃのクレイ。コンペイトウ食うか?」
「いただきます!」
そしてブルックリンが笑顔で差し出してきたコンペイトウに、クレイはあっさり買収されてしまい、先ほどの剣幕が嘘のような笑顔となる。
「あ、ティナも食べるかい?」
「いえ、ウチは遠慮します」
ブルックリンにもらったコンペイトウを、即座に一粒口の中に放り込んだクレイは、先ほどからしょんぼりとした顔で横で浮いているティナにもあげようとするが、それはあっさりと断られてしまっていた。
「元気が無い時は甘いものを食べるのが一番なんだけど」
「申し訳ありません」
か細い声で答えるティナを見て、クレイは困ったようにブルックリンを見る。
先ほどブルックリンからチラリと聞いた話では、どうやらティナはクレイが誘拐されたことを予想以上に気にしているようで、先ほどからクレイの肩に止まろうともせず、話しかけようともせず、所在なさげに浮かんでいるだけであった。
(ベル兄も見失っちゃったくらいなのに、そんなにティナが気にする必要はないんだけどなぁ……初めて会った時はあんなにワガママで身勝手だったのに、森の中で何があったんだ? それともガビーが回復したから雑が裏返ってマトモになったのか?)
ティナを慰める言葉を必死に考えるクレイ。
「ほいほい、そこの翅妖精が落ち込む気持ちが判らんではないが、そう落ち込んでいる姿を見せられてはこちらも気を使ってしまうぞい。コンペイトウ食べるか?」
「……ではお言葉に甘えさせていただきます」
しかしそこは送ってきた人生の差と言うべきか、それとも屋敷の主人であるブルックリンからの勧めであるからか、ティナはブルックリンからあっさりコンペイトウを受け取ると、口に運ぶ。
「ほっほ、その顔、その顔。そう言った笑顔を見るために、わざわざ儂は大枚をはたいてこのコンペイトウを作らせておるんじゃから、遠慮など無用じゃわい」
そう言うと目の前の好々爺、豊かな白髪と白髭を持つブルックリンは、コンペイトウを両腕で抱きしめてかじり付くティナへ笑いかけたのだった。
「で、フィーナの件なんだけど」
「ほほい、まだ終わっとらんかったのかの」
少々呆れ顔で答えるブルックリンを、クレイは真剣なまなざしで見つめる。
「いや、仮にもブルックリン家の娘で、しかも昔魔族に誘拐されたこともあるフィーナを一人で出歩かせるのはどうなのかなって」
「ほむり、つまりフィーナと結婚して守ってあげたいと言うことかの」
「何でそうなるの? ちゃんと説明して?」
クレイから先ほどの五割増しの真剣なまなざしを向けられたブルックリンは、しばし考え込んだ後に寂し気な表情で傍らの女性へ目を向ける。
「儂から説明するより、母親の口から説明した方がよかろう。頼んだぞヴァハ」
「あいよー」
そしてブルックリンはソファから腰を上げ、ヴァハに目配せをすると、クレイに見えないように含み笑いをしながら部屋の扉から出ていった。




