第35話 正義の淑女フィーナ!
「おーい、そっち押してくれー」
「ガスもたまってねえし、おっちんじまったばかりかねえ」
「もう少し沖で死んでくれりゃあ魚が片付けてくれるのによ。死んでまで他人に迷惑かけるんじゃねえよめんどくせえなぁ……おわあっ!? ぼ、棒が細切れに!?」
港町ローレ・ライの波止場に、うつぶせの状態で流れ着いた水死体(仮)。
海面にぷかぷかと浮いていたそれを引き上げようと群がっていた棒が、いきなりいくつもの破片に切り裂かれ、同時に水色の髪を持つ水死体(仮)の男が立ち上がる。
[ヘッ、ティアマトのバーさんもまだまだ甘いな]
その正体はクレイが王都テイレシアで見た最上位魔族の一人、前回の天魔大戦でアルバトールと数々の死闘を繰り広げたバアル=ゼブルだった。
「あ、死体と思ったらバアル=ゼブルじゃない今死んで?」
[うおおッ!? あぶねえいきなり何しやがるテメエ!]
バアル=ゼブルが海面に立ち上がった途端、ガビーが作り出した高温高圧の水蒸気が彼を包み込むが、青い髪を持つ旧神は即座に風を作り出し、単なる空気の揺らぎにしか見えないそれらを振り払って飛び上がる。
「幾度も戦ってきた仇敵に向かって、いきなり何しやがるとは寝ぼけた質問ですな」
[今度はベルトラムかよ! 何で俺がヘプルクロシアに来るとテメエらがいるんだよ!]
しかし飛び上がって波止場に降り立った彼を待っていたのは、歓迎する美女たちの花束などではなく、ベルトラムが放った槍の連撃だった。
右手に瞬時に顕現させた矛、マイムールでその連撃を交わすと、バアル=ゼブルはベルトラムとの間に飛び散った火花すら消えていない一瞬の間に、黒いマントと白い服、そして水色の長い髪をはためかせつつ今度は倉庫の屋根へと飛び移る。
「ほう、王都に封印されていた間に腕を上げられましたかな」
「でもあたしたち二人を敵にして生き残れると思う?」
四大天使である水のガブリエルを正体とするガビー、土のウリエルを正体とするベルトラムは、今までの天魔大戦で繰り返されてきた気が遠くなるほどの戦いを思い出したのか、肌がひりつくほどの殺気を発しつつ、再会を祝する挨拶――あるいは脅迫――をすると軽く微笑む。
しかしその二人に囲まれていてさえバアル=ゼブルの余裕は崩れることも無く、それどころか逆に軽い口調で警告を飛ばしていた。
[おいおい、お前ら領境の森で戦った時のことをもう忘れちまったのか? ほぼ無人だった森と違って、こんな街中でこの俺と一戦交えたら、大勢の人間どもを巻き込んじまうぜ? どうやら俺たちが王都に封じられて自由を失った間に、お前らは常識を失っちまったみたいだな]
バアル=ゼブルはニヤリと笑みを浮かべると、懐かしい友人を探すような優しい目でぐるりと辺りを見渡し、ぽつりと呟いた。
[つーかお前らがここに居るってことは……アルバトールの野郎もいるのか?]
言葉を発した本人からみれば、何気ない一言のはずだった。
だがその一言がベルトラムとガビーの二人を黙らせ、凍り付かせてしまったことにバアル=ゼブルは少なからず動揺する。
「……アンタが心配する筋合いじゃないわ」
彼が見つめる先で震えるガビーの手、声、そして揺らぐ感情。
バアル=ゼブルは王都に自分たちが封印されている間に、ついこの前まで何度も戦ってきた最大の好敵手の身に、何かがあったことを感じ取っていた。
しかし彼は今のところある指示を受けて動いている身であり、ここでいつ終わるか分からないような戦いを始めるような無駄な時間は無い。
[そうかい、それじゃお前たちとはここまでだ。まぁついでに倒しちまってもいいが、それじゃあエルザの野郎が黙ってないだろうからな……っと]
余裕の笑みを浮かべたバアル=ゼブルが後ろに体を逸らせると、先ほどまで彼の顔があった場所を一本の熱線が通り過ぎる。
「あばよお二人さん。アルバトールのことについて相談したいことがあるなら、今度会った時にでもじっくり話を聞いてやるぜ? 神であるこの俺がな」
そしてそう言った刹那、バアル=ゼブルの姿は消えていた。
「突然に現れ、去って行く。まさに天災ですね」
「そうね……」
うんざりと呟くベルトラムに、ガビーは心ここに在らずと言った口調で答える。
なぜならその時ガビーは、彼女が転生を終えてフォルセールに戻った時のことを思い出していたのだ。
――しっかりしなさいよ! アンタがそんなことじゃ、散華したエルザ司祭様も浮かばれないじゃない! ――
――何度でも! 何回でもひっぱたいてあげるから! だから……だから前のアンタに戻ってよ! ――
前回の天魔大戦で転生したガビーがフォルセールに戻った時、彼女が見たのは感情と行動を自ら封じてしまい、生ける人形のようになってしまったアルバトールだった。
ほうぼうに手を尽くし、試行錯誤し、持てる力すべてを使い、万病を癒すルルデの泉に籠り。
だがアルバトールに戻ったのは、自発的に喋れるようになる程度の感情だけだった。
(でも……ひょっとするとアイツなら……バアル=ゼブルなら……)
そしてガビーは、かつて親友だった一人の熾天使の顔を思い浮かべる。
人々を守るために戦い続け、だがそのために心をすり減らし、衰弱していった彼女を救ったのはガビーやエルザではなく、魔族に身を売ったあの旧神。
自分はできなかった。
だがあのお調子者の旧神なら……あるいはアルバトールを助け……
「行きますよガビー。クレイ様をお助けしなければ」
「あぁ……ええ、そうね」
ベルトラムが緋色の槍を突き出した姿勢でそう提案すると、ガビーはベルトラムと共にクレイが連れ去られたと言う空き家へ向かったエンツォたちの後を追った。
一方、その連れ去られたクレイと言えば。
(うぇ……なんか手招きしてる)
困っていた。
「そこの少年……ちょっと立ち上がりたいから手を貸してちょうだい……」
「やだ」
「あなた悪ね! 正義のお願いを断る奴つまり悪よ!」
「うんそう悪なので手伝わない」
「ウソウソ、いい子だからお願い手を貸して正義のお姉さんすごく困ってるから」
つまり、うっかり正義の味方に巻き込まれてしまっていたのであった。




