第299話 天秤にて推し量る選択!
「殿下、こちらが現在の真水の詳細な残量です」
「ご苦労チエーニ」
グヤーシュによる真水の浪費に気づいた次の日の夕方。
パーヴェルはチエーニが持ってきた資料に目を通すと、不愉快そうに眉根にしわを寄せた。
「……切り詰めて五日分か。予想していた量より更に少ないな」
「どこからかレシピの変更と節水の情報が漏れたらしく、兵士たちが慌てて口にした模様です」
「外部に漏れぬよう、ひっそりと処置をしようとしたのが原因か。やれやれ、人心とはままならぬものよ」
ロウソクの火がゆらゆらと揺れ、天幕の中を心細い光量で照らし出す。
うつろうロウソクの火を、まるで自分の心象のようだとパーヴェルは忌々しく睨みつけ、だがすぐにチエーニの視線に気づくと資料を指でトンと叩いた。
「食料が無くても人は戦えるが、水が無ければ死に絶えるのみ。ここは一旦後退し、水を確保する。後方部隊にも檄を飛ばし、補給を急がせろ」
「追撃を受けた場合は?」
「ここはまだムスペルヘイムの奥地には入り込んでおらぬ。奴らの戦術は基本的に自分たちの体に泥を塗り、周囲の景色に姿を馴染ませたうえでの奇襲と、退却する奴らを追撃しようとした敵への火計だ。その二つが使えぬ以上、奴らが追撃してくる可能性は無い」
「ではそのように」
領境の砦を攻略したヴェイラーグは、こうして一時退却を決定する。
「……しかし妙な話だ」
「殿下、何か追加の指示でもおっしゃいましたか?」
「何でもない、相談することができれば呼ぶ」
「承知いたしました」
チエーニが長い髪を揺らしながら天幕を出ていくと、残ったパーヴェルは机に頬杖をついて、今しがた思いついたことの吟味を始めた。
(ベルナールの策であれば、こんな足止め程度に終わるはずが無い。例えばそう……我々が水の残量に気づく前に、少々の小競り合いを仕掛けつつ、ムスペルヘイムの奥地に引きずり込むことだろう)
パーヴェルは乾いた喉を潤すために水差しを持ち、だが自分で水の制限を言い出した手前、先ほど追加の水を断ったことを思い出して自嘲する。
(つまりこれを仕掛けてきた人間の目的は時間稼ぎ……あるいはこちらを叩けるほどの編成を派遣できない状況の者……なるほど、ベルナールの影に隠れて見えなかったが、仕掛けたのはミュール家の次男坊、エクトルか)
そこまで考えるとパーヴェルはニヤリと笑みを浮かべた。
「激昂しやすいジルベールとは違い、十年前から才の片鱗を見せていたとはいえ、まだまだ未熟者と思っていたが……なかなかやってくれるではないか。こうなると離間の計もうまくいっているか知れたものでは無いな。しかし……」
パーヴェルは黙り込み、再びある男の存在に思いを馳せる。
(ベルナール、奴はやはり危険だ。未だ戦場に着いていない、遠くにある一人の人間がここまでの影響力を持つことは、決して好ましいことではない……我が国にとっても、周辺諸国にとっても、そして……テイレシア自身にとってもな)
ここに至り、パーヴェルはベルナールの暗殺を決意する。
彼はその方法を持つ者たちを知っていたが、その技術が失われていることもまた知っていた。
(だが……それを必要としないやり方もある……)
以前にパーヴェルが受け取った一つの報告。
それを利用する卑怯さを彼は知っており、だが卑怯であることを理由に実行しない愚かさもまた知っていた。
(愚鈍な男にはなるまいよ。我が自尊心と、我が国の行く末を、同じ天秤にかけるような男にはな)
パーヴェルは呼び鈴をやや力を入れて鳴らすと、近侍にチエーニを呼ぶように申し付けたのだった。
そしてパーヴェルの憂鬱に対し、アルストリア城では二人の兄弟が安堵の息をついていた。
「どうやら上手く行ったようです、兄上」
「そのようだな。だがあまり策をろうすると、逆に後で陛下たちが動きにくくならないか?」
「そのくらいの苦労はしていただきましょう。我々はまだ若輩であり、治める土地は痩せており、その中で数少ない収入源だった通行税も撤廃され、大規模に兵を養う余裕もありません」
「という建前を述べるのは私なのだが」
「ご心労お察し申し上げます領主」
「こいつめ、私を補佐するのに必要な図々しさまで段々と身に着けてきおる」
その二人の兄弟、ジルベールとエクトルは互いにニヤリとした後、声を上げて笑い始める。
「次はどうする、エクトル」
「正直に言うと手の打ちようがありません。敵将パーヴェルはムスペルヘイムの向こうにあり、我々の手勢のみでは討ち取ることは不可能です」
「ムスペルヘイムか……本来であれば、我々の所領に組み込まれていてもおかしくない地方なのだが」
「仕方ありません。元々不毛の大地と呼んで我々の祖先が打ち捨てていた土地に、いつの間にか住み着かれてしまいましたからね。しっかりと管理していなかったこちらの落ち度です」
「それに今の我々にとってはこれ以上ない味方のようなものだからな。現在のアルストリア防衛は、殆ど彼らの存在に助けられているといって過言ではない」
「まったく情けない話です。今回もムスペルヘイムの向こうにある領境の砦は、ほぼ無血開城と言っていい形になりましたしね」
エクトルが溜息をつくと、ジルベールも腕を組んで眉根を寄せる。
「ムスペルヘイムがはっきりと独立の意思を見せれば、あの地帯は譲り渡してもいいくらいなのだがな。ヘタに開拓をしたために、捨てるに捨てられぬ地域となってしまった」
「ヴェイラーグに手痛い打撃を与えれば、賠償として国土の割譲も迫れてある程度の兵力を常駐できるのですが。もしくは以前話に聞いた獣人の国など、緩衝地帯としてもってこいでしょう」
「ふむ」
ジルベールもその考えはあったが、今はそこまで考えを巡らす時ではない。
エクトルも十分承知のようで、今は再びヴェイラーグがムスペルヘイムに入り込んできた時のための戦術を思案しているようであった。
「兄上、陛下たちはいつ頃こちらに?」
「五日ほどだと言っていた」
「……早すぎではありませんか?」
エクトルが呆れた顔でそう言うと、ジルベールは肩をすくめて口を開く。
「どうもタリーニア砦を奪還したベルナール殿がそのまま、こちらに出陣する計画だったらしい。丁度クレイ君の成人祝いで各国の領主が揃っていたから、全員ここぞとばかりに使いたおされたぞ」
「やれやれ、まさかそのために成人祝いに呼んだのではないでしょうね」
エクトルはそう言うと、自分が口にした内容に気づいて周囲に視線を配る。
「その言ボヤきはとっくにあのエルネスト伯が、三白眼で陛下にこんこんとお説教をする時に使っていたから構わないだろう」
「そうですか」
エクトルはその光景を思い浮かべ、くすりと笑みを浮かべる。
その感情に思い当たることがあるのか、ジルベールも含み笑いをすると、遠いムスペルヘイムの向こうにいるヴェイラーグ軍へと思いを馳せた。
「しかしヴェイラーグの最初の侵攻がタリーニア砦を奪うための囮かと思えば、今度は時を置かずに本軍をもって我らが領地に攻め込んでくる。よほど今のヴェイラーグ軍は兵站に余裕があるらしい」
「……やはりテスタ村の者たちが協力を?」
「そうせざるを得ない状況ではあるだろう」
二人は同時に溜息をつき、ミュール家と因縁浅からぬ彼らの運命を思う。
「無事でいてくれればいいのだが……」
ジルベールはそう呟き、エクトルは再びヴェイラーグ迎撃の策を練り始めるのだった。
そしてその次の日。
「我々に前線に赴けとおっしゃるか!」
ヴェイラーグ軍の後方では一つの小さな、だが今回の戦い全体を揺るがす大きな原因となる騒ぎが起こっていた。