第298話 捧げられた食料!
ヴェイラーグ帝国の首都、モスクラースを皇太子パーヴェルが出立してから三日後。
「……何? すでに領境の砦は陥落しているだと?」
「はっ! 先陣はすでに村を制圧しているとのことです! 詳細はこちらに!」
「ふむ」
急使が持ってきた文書の内容に、パーヴェルは眉根を寄せる。
「分かった。よく知らせを持ってきてくれたな」
そして急使の労をねぎらうと、全軍に二時間ほどの休憩を与え、自らも馬を降りると、彼の姿を隠す簡易的な幕の中に用意された椅子と机に身を委ねた。
「さて……砦も村もガラ空き、更には十年と少し前に攻め込んだ時とは違い、多くの食料が我々に捧げられるように集められていた、か」
文書の中身を読んだパーヴェルはそう独り言ちると、近侍が持ってきた水をグイと飲みほした。
(収穫祭をしていた可能性もあるが……十中八九は罠であろうな。だがその目的が何なのかが問題だ)
パーヴェルは空になった器をクルクルと手でもてあそび、コツンと机に置く。
(特に食料が集められていたその傍に、スープが大鍋でぐつぐつと煮込まれていたというのは一体なんなのだ)
近侍が持ってきた水入りのポットを、パーヴェルは無言のまま片手を上げることで制し、しばらく一人になりたいと申し付けて人を遠ざける。
(食料に毒が入っていれば簡単だ。我々を毒殺してその場の足止めとする。毒が入っていなくても同様に、怪しいと睨んで調査をするであろう。だが鍋に火をかけたままというのは解せん……特に)
文書の一部分を、パーヴェルはもう一度見直す。
「鍋は火にかかったまま、なのに作った人間の影も形も見当たらないとはな」
パーヴェルは再び独り言を口にする。
「あまり複雑にお考えなさいますな。殿下がそのように疑心暗鬼になるように、単純に足止めの材料を足しただけでは?」
その直後に背後からやや高めの声をかけられたパーヴェルは、そちらを見ようともせずにそのまま声をかけた。
「お前が今回のチエーニか」
「さようでございます殿下」
それからパーヴェルが振り向いてみると、驚くことにそこには長身で長い黒髪を持つ女性が立っていた。
この時代において、ごく一部の例外を除けば女性が戦場に立つことは無い。
人払いをしたはずなのに、いきなり声をかけられても狼狽えなかったパーヴェルも、この事実には軽く目を見開き、そしてつまらなさそうに溜息をついた。
「俺に色を覚えさせろとでも陛下に言われたか?」
「殿下も面白いことを仰せになりますね。私はここ数年ほど陛下からお言葉を賜ったことはございません」
「そうか。だが文書の内容をやけに詳しく知っていることについて、何か俺に言うことはあるか?」
「単に文書を殿下がご覧になる前に、毒の類が塗られていないか確認しただけでございます」
「越権行為だな。今度からは気をつけよ」
「御意」
チエーニは片手を体の前に当て、うやうやしく礼をすると、パーヴェルの手招きに応じて机の前に立つ。
「手紙の内容についてはどこまで見た」
「すでに砦と村は占領済み、気になる点として食料が集められ、その傍らにも鍋の中に調理されたものがあったとまで」
「冒頭のみか」
パーヴェルは手紙の向きをチエーニへ向け、中身を見るように言う。
「なるほど、村人はおろか、防衛にあたっているはずの兵の姿まで皆無ですか」
「それでいて鍋には火がかけられていた。報告された文書の中身をそのまま信じるのであれば、村人たちは収穫祭もしくはそれに準ずるものをしていたが、我々の姿を見て慌てて逃げ出したということになる」
「それだと村人や兵の姿がまるで見えないというのは相反しますね」
「そういうことだ。家の中も整然としており、生活に必要なものはあらかた持ち出されていた」
パーヴェルは椅子に体を預け、腕を組む。
「そこから考えるに、テイレシアの狙いは先ほどお前が言った、俺を疑心暗鬼に追い込みたいことかもしれん。だがあのベルナールがそんな浅い考えを、わざわざ貴重な食料を無駄遣いさせてまでやらせるとは思えん」
「なるほど……」
チエーニは考え、そして一つの推論を口にする。
「しかしベルナールが有能な男なら、殿下がそこまでお考えになることも織り込み済みなのでは?」
「ふむ」
パーヴェルはその助言に何らかの思考の逃げ道を見出したのか、口に右手を当てて無言になる。
だがその黙考も、すぐに終わった。
「殿下、そろそろ出発の時間でございますが」
「分かった、全軍に出立の伝令を」
パーヴェルは幕の向こうからかけられた近侍の声に応えると、椅子から立ち上がり、チエーニについてくるよう申し付ける。
そして迷いを振り払うように素早く騎乗すると、出発の号令を出した。
(残りの考えは現地に行ってからだな)
こうしてパーヴェルは領境へと進んでいった。
三日後。
パーヴェルは領境の砦に着き、現地の指揮官に説明を受けていた。
「つまり食料の具材の多くは、グヤーシュに使うものだったということか」
「はい、そこから得た私の推測は、我々に対抗するために出撃しようとした兵士に、村人たちが振る舞おうとした、しかし我々の進軍が思ったより早く、間に合わずにそのまま放棄した、というものです」
「根拠は?」
「周囲にいくつもの大鍋があったこと、そしてそのいくつかに水が張られており、まさに調理をしようとしていたことなどです」
パーヴェルはうなづき、ここに来るまでに思いついた懸念の一つを口にする。
「食料や料理に毒などは仕込まれていたか」
「いえ、その辺りに撒いてカラスで調べてみた所、特に異常は見られませんでした」
「……そうか。で、味はどうだった」
「たいそう美味であったそうで、食べると体が温まるとも言っていたそうです」
「ふむ……」
パーヴェルの口は閉じられ、それを不吉と感じたのか指揮官はやや落ち着かない素振りでパーヴェルに進言をする。
「殿下のお口に合うか分かりませんが、よろしければ口になされますか?」
「止めておこう。もし何らかの罠だったとしたら、俺までかかるのは不味い」
「御意」
パーヴェルは指揮官の勧めを断ると村の中を見渡し、そして外に野営している兵たちを見る。
「残っていた食料はどうした」
「例年どおり、毒見をした後で徴収しております」
「良かろう。現地調達はいつものことだが気を付けておけ」
「はっ」
「俺はチエーニと兵たちの様子を見てくる。兵たちが余計な気を使わぬよう、お前はここに残っていろ」
「はっ……しかしながら、殿下が直接お会いになる方が気を使うのでは?」
「身元が判明せぬようにしておく」
「はっ」
パーヴェルは指揮官に背中を向け、野営している兵たちの元へと歩いて行く。
だがそこでも別段変わった様子は無く、やはり取り越し苦労であったかとパーヴェルは判断し、連れてきた隊に一日の休養を与えると、そのまま領境の砦に駐留していた軍を引き連れ、更にアルストリア領へと進軍。
程なくムスペルヘイム地帯の近くへと到達し、軍を進めていった。
「兵たちに変化は無いか、チエーニ」
「ございません殿下。特に体調に異常をきたす者もおらず、グヤーシュとかいう料理も兵たちに大変好評です」
「そうか」
「やはり考えすぎでは? 眼前にいくさが迫っていると言うのに、殿下がそのようにうわの空では、全軍の士気に関わります。指揮官の迷いは全軍の迷いにもつながりますゆえ、どうかご自重を」
「……僭越であるぞチエーニ」
チエーニの諫言を聞いたパーヴェルは、やや機嫌を損ねたように口をひん曲げて眉根を寄せる。
「申し訳ございません。ですが我らチエーニ一族にとって、それも仕事の内でございますゆえ」
「そうだったな、俺も言い過ぎた。すまんな」
「いえ、殿下はヴェイラーグの至宝。私などが差し出がましく口を出すこと自体恐れ多いことでございます」
チエーニが頭を下げると、パーヴェルは片手をあげて許し、同時に発言を少しの間だけ慎むように命じた。
(迷いか……)
考えすぎだとは自分でも思っている。
しかしここムスペルヘイムに至ってさえ、まだ心の奥底に引っ掛かる違和感はぬぐえていなかった。
「そろそろムスペルヘイムの奴らも偵察に来ているだろう。こちらも進軍の方向を主に偵察を出せ。戻ってくるまで小休止とする」
「はっ」
パーヴェルは新たな指示を出すと、椅子と机を持ってこようとする近侍を手で押しとどめ、騎乗にてそのまま待つ。
次第に偵察に出した者たちが戻ってきはじめ、異常と欠員が無いことを確かめた後にパーヴェルは出立の号令を出そうとするが、その直前にチエーニに押しとどめられ、報告内容に目を吊り上げた。
「真水が残り少ないだと……⁉」
「は、はい! いえ、もちろん一週間ほどの余裕はございますが、このままアルストリアまでムスペルヘイムを抜けるには、少し足りないとのことです!」
「バカな! 兵站の計画には余裕を持たせていた! それなのに今足りなくなっているということは、その一週間の余裕すら信じられんということではないか!」
パーヴェルは報告してきた指揮官を思わず怒鳴りつける。
「道中での水飲み場での補給もきちんとしていたのであろうな!」
「それはもちろん立ち寄るたびに! ですがいつも綺麗な水が採取できるとは限らず、ムスペルヘイムの近くとなれば尚更……」
「それは……その通りだ」
怯える指揮官を見たパーヴェルは、指揮官へ慰労の言葉をかけて思考する。
(なぜだ……俺の計画が間違っていたというのか? だがそれ以外の原因は……まさか!)
パーヴェルは一つの不確定要素にすぐ思い当たり、行動に移す。
「グヤーシュをもて!」
程なくして持ってこられたグヤーシュを口にしたパーヴェルは、すぐにスプーンを置いて長いため息をついた。
「……してやられたな」
そして落胆の言葉を発すると、指揮官にグヤーシュの味付けを変更するように指示したのだった。
ヴェイラーグの人間には少し辛すぎる味付けの、グヤーシュという料理を。