第291話 兵は不詳の器にして君子の器にあらず!
情報は商売の命脈と尊ばれ、何よりも重視されるヴィネットゥーリア共和国。
天球儀と呼ばれる丸い飾りが天井からぶら下がっている執務室で、いつものように紙の障壁に囲まれながら執務を執り行っていた一人の男は、忠実な老執事が執務室の扉をノックする音を聞いてペンを置いた。
「ジョヴァンニ様」
「どうした」
「タリーニア砦の件で続報が入りました」
ヴィネットゥーリア共和国のかじ取りをする十人委員会、その中でも実質的には最上位の地位にあると噂されるジョヴァンニは、老執事の切り出した話題を聞いてピクリと片眉を上げた。
「早いな……聞いていた進軍のペースでは、テイレシア軍は二~三日前にタリーニア砦へ着いたくらいのはずだが」
「それが……」
珍しく老執事が答えに窮する。
それを見たジョヴァンニ=カッシーニ、この国でも最大の商会を切り盛りする彼は、たちまち胸がざわつくのを感じた。
「まさか……負けたのか、テイレシアが」
「いえ」
ジョヴァンニの問いに対し、まず否定を口にした老執事は、それをきっかけに頑なに閉じていた口を流暢に滑らせ始める。
「ベルナール将軍率いるテイレシア軍は、あのタリーニア砦を正攻法によって一日で陥落させたそうです」
「な……」
そして説明を聞いたジョヴァンニは、老執事とは対照的に開いた口がしばらく塞がらなくなったのであった。
難攻不落と言われたタリーニア砦をテイレシアが即座に奪還、俊英と呼ばれたニコライ率いるヴェイラーグ軍は壊滅。
ベルナールの名声を聞き及んでいた者ですら、おいそれと信じられない戦果は、あっという間に大陸中を駆け回る。
そしてそれは、この国においても例外ではなかった。
「何だと⁉ それは真か!」
出陣に向け、多忙を極めていたフェストリア王国の国王ヴィルヘルムが、眼前に膝をついた使者の頭に向けて唾を……ではなく怒声を叩きつける。
だが使者は一向にひるむ様子もなく、自分の持っている情報をヴィルヘルムに渡す、ただ任じられたそれだけを果たすべく凛とした目で国王の顔を見上げた。
「ハッ! タリーニア砦に駐留していたヴェイラーグ軍は、テイレシア軍との会敵より一日にして壊滅! 率いていたニコライ将軍は消息不明とのことです!」
「ぬ……う……」
ヴィルヘルムはうめき、奥歯が砕けんばかりに食いしばる。
ニコライがベルナールに勝てるとは、正直ヴィルヘルムも思っていなかった。
しかしニコライとてヴェイラーグではそれなりの地位と名声を勝ち取ってきた男であり、実際にあの難攻不落と呼ばれたタリーニア砦を、闇夜に紛れた奇襲とはいえ一日で落とした才覚の持ち主である。
それがまさかの短期決着、それも一日でとは。
「にわかには信じられん話だ……ビスマルクとモルトケを呼べ!」
軍服姿で自ら兵たちに入り交じり、物資の差配をしていたヴィルヘルムは、持っていた物資のリストを側近に渡し、新たな指示が出るまで待機せよと命じると、急いで執務室へ向かった。
「何と……陛下、その報告は本当でございますか。真実にしても、使者が来るのが早すぎではありませんか?」
「真実だビスマルク。ワシが使者に手渡した親書がそのまま戻ってきたのが、何よりの証拠だ」
堂々とした偉丈夫、ビスマルクが国王ヴィルヘルムより書状を受け取り、内容を確かめる。
「ふむ、確かに蜜蝋の封印、そして中の書体、陛下の物に間違いありませぬな」
「……何度もワシの公式文書を添削したお前の同意を得られたのだから、間違いはなかろうな」
執務の時、口うるさいビスマルクからのねちっこくしつこい指摘を思い出したヴィルヘルムは、苦虫を噛みつぶしたような顔となると、含みのある返答をビスマルクにする。
「んふっふう……あ、陛下、小官もその書状を拝見してもよろしいですかなあ?」
すると傍らでそれを見ていた痩せた小男、モルトケが笑いをこらえられず顔を背けたまま、ビスマルクが持ったままの書状を渡してくれるように頼みこんだ。
「どうぞモルトケ殿」
当然ビスマルクは仏頂面のままモルトケに書簡を手渡し、渡されたモルトケは顔を背けたままに、書面にずいと顔を近づけて顔ごと視線を動かし、ずずいと内容を読み込むと何度もうなづいた。
「ははあ、しかし実際に話を聞いても、そうそう信じられぬことでございますなあ陛下。タリーニア砦といえば、我が国も過去何度も奪い取ろうとして、結局は果たせなかった要塞」
「うむ」
「それをニコライ殿が一日で奪い取ったと聞いて驚いていた所に、これまた一日でベルナール殿が奪い取ったというのですからなあ」
「まさしく青天の霹靂、まったく信じられぬ話よ。ベルナールはどのような魔法を使ったのだ?」
ヴィルヘルムが椅子に体を預け、天井を見上げながらため息をつくと、モルトケはニヤニヤしながら懐から一通の書状を取り出した。
「陛下、これを」
「なんだモルトケ……こ、これは⁉」
モルトケから書状を受け取ったヴィルヘルムが、内容をあらためる途中だというのに目を見開き、驚愕の表情となる。
何故ならそこには、タリーニア砦での戦いの内容が、当事者でなければ分からないような情報まで詳しく書かれていたのだ。
「これをどこで手に入れた! モルトケ!」
怒りとも焦燥とも、まるで判断がつかぬ形相で迫りくるヴィルヘルム。
「ははあ、それがですなあ」
だがモルトケはそんな国王を見てもまったく平然としたまま、頭をぽりぽりと掻いてからのんびりと口を開いた。
今回の戦いが早急に終結したため、法術による念話が容易にできる状況であったこと。
そしてその書状の内容が、ベルナールの連名の元に念話で送られてきたことなどをヴィルヘルムに説明した。
「……ふう、まさに神算鬼謀と言ったところか。奴の前では、どのような者でも心の底まで丸裸にされてしまうのではないか」
説明を聞いたヴィルヘルムが、半ば諦めた顔で額を冷やすように手をやる。
モルトケはすぐに首を振って否定しようとするも、視線を床に落とすだけに留めた後、口を開いた。
「とばかりは言いますまいがなあ……小官は昔、外交の場での宴席の時に、ベルナール殿とカードゲームをしたことがあるのですが」
「どうだったのだ?」
「何度やっても、ほどほどに勝つか、ほどほどに負けるか、でしたなあ。不思議なことに」
「……そうか」
ヴィルヘルムは一気に十は年を取ったと周囲に思わせる、生気を失った顔となると、再び椅子に体を預けて深いため息をつく。
「ビスマルク」
「ここに」
「出陣を急遽取りやめよ……いや、大々的な訓練を行うように変更せよ」
「承知しました」
そして力ない声でビスマルクに指示を出すと、椅子のひじ掛けに頬杖をついて思わずギギギと歯ぎしりをしてしまっていた。
腹立たしさのあまり、つい行儀の悪い仕草をしてしまったヴィルヘルムを見たモルトケは、軽く肩をすくめると背筋を伸ばし、踵と踵をコツンと打ち合わせてヴィルヘルムの注意を引く。
「久しぶりにチェスでも打ちませんかな、陛下」
「そうするか」
うやうやしく頭を下げたモルトケの姿を見たヴィルヘルムは、先ほどまでの自分の行いを誤魔化すかのように口を曲げ、チェスの盤の上に駒をカツン、カツンと置いていった。
「……まさかテイレシアを恐れるあまり、出陣の用意を訓練の用意だったと言い訳することになろうとはな」
「君子危うきに近寄らず。兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。国を治むるものは覇道によらず王道によるべし。陛下はたとえ苦渋にまみれようとも、正しい道をお選びになったのでございますがなあ」
モルトケの慰めを聞いたヴィルヘルムは、照れ隠しに鼻で笑うとナイトの駒を手に取ってモルトケのルークを討ち取る。
「まったく頭が痛いことよ。王などというものはさっさと次代に押し付けて隠居したいものだ」
「それが出来ぬのも王家の血筋の義務というものでございますがなあ。チェックメイト」
「ぐぬぬ」
しかしナイトを前に進めたヴィルヘルムの陣には穴が開いており、そこを狙ったモルトケがそそくさとビショップを斜めに進めて穴を拡げ、ついにはチェックメイトをされてしまっていた。
これで何百回目の敗北であろうか。
数えるのもやめて久しいチェスの負けをヴィルヘルムは認めると、気分転換に散歩に出てくるとモルトケに言い残し、不機嫌そうに執務室を後にしたのだった。