第290話 耐えがたい誘惑!
「ふぁ~……」
「おいおい、敵がいつ来るか分からないって時に欠伸だなんて、隊長から雷が落ちても知らないぞ」
「かまやしねえよ。連日のように補給部隊が襲われて、こっちは前へ後ろへ走り回ってるんだ。欠伸の一つくらい見逃してくれるさ」
「そんなことを言っても、フェストリアも参戦するかも知れないって噂だぜ。そんな時に欠伸なんてしてたら……くぁ……」
行軍を続けるテイレシア軍。
だが目的地であるタリーニア砦が近づいていると言うのに、呑気にあくびをしている兵士を見つけた騎士が、即座に目を吊り上げて馬を駆けよらせた。
「貴様ら、死にたいのか?」
「あ、いえ、申し訳ありません!」
「緊張で硬くなりすぎるのもいかんが、気を緩めすぎては自分がいつ死んだか分からないまま、戦場で朽ち果てることになるぞ」
「は、はい! 肝に銘じます!」
騎士と兵士がいくつかのやりとりを経た後、少し離れたところにいたアランが不穏な空気を察して近づき、その場にいた者たちに幾つかの薫陶を与えた後、自分の持ち場へ戻っていく。
その様子を、はるか離れたタリーニア砦の楼閣に据え付けられた、物見やぐらの上から見守る二人の人影があった。
「クク……今のを見たかチエーニ」
「いえまったく」
「そういえばお前には、上空を飛ぶ魔物の目を貸し与えていなかったか。テイレシアの奴らめ、何度かの補給部隊への襲撃で、我らが本格的に砦を出て戦うことは無いと判断し、緩みに緩みきっておるわ」
「それはよろしゅうございました」
素っ気なく答える側近、チエーニを見たニコライは、面白くなさそうに物見やぐらの上で口をひん曲げる。
「もう少し嬉しそうにしてはどうだ。我らの勝利が目前に近づいておるのだぞ」
「気が緩むときは、物事が成就する直前というのが一般的でございます。くれぐれも油断なさいますな」
「確かにな。だがお前は見ていないから分からんのだ。奴らの顔を間近に見る機会があれば、斜陽の国とはああいうものなのだろうと思うだろう」
今まで人ではなく、人よりはるかに強い魔物と戦ってきた国と兵士。
それが過剰なまでの自尊心に繋がり、相手を軽んじる風潮となっている。
「国土という大樹の元に人が寄り添う組織、国。だが国が国たりうるには、人間がまず大樹を守ろうとする進取の気風にならねばならず、そして大樹に生かされているのだという感謝の心を持つ必要がある。だが――」
ベルトラムの目が届いていないからであろうか。
砦に向かっているテイレシア軍の中団~後方に、やや乱れがあることに気づいたニコライはにんまりと笑みを浮かべる。
「奴らはそれらを忘れ、騎士はただ自分のみの働きを誇り、兵士は他者への依存によって自らの安全を保とうとしている。奴らは我らの侵攻によってではなく、自らの内からの腐敗によって滅びるのだ」
そして進軍してくるテイレシアに対し、ニコライは樹上で腐ってしまった果実を見るような視線を送ると、出陣のために下へと降りていった。
そして状況は動きだす。
「ベルナール将軍! 砦より狼煙が上がっております!」
「ヴェイラーグ軍! 砦より出陣の模様!」
放っていた斥候より立て続けに報告を受けたベルナールは、ぼんやりとした目を軍の前方へと向けた。
「やれやれ、目がかすんで困るな……アランはいるか」
「アラン副団長は敵襲に備え、補給部隊に近い後方の指揮を取っております!」
「ふむ」
ベルナールは気の抜けた一言を呟くと、馬首を前方へと向ける。
「では私が行こう」
「将軍⁉」
斥候が止める間もなく、ベルナールは先陣へと駆け込んでいく。
その腰に下げたオートクレールより水煙をたなびかせながら。
当然、その動きはニコライにすぐ知れることとなる。
「何だと⁉ ベルナールが自ら先陣に⁉」
「はッ! 敵の先陣より立ち昇る水煙は、まさしくオートクレールよりのもの! 見紛うはずがございません!」
「ククク……衰えるどころか血迷ったかベルナール! 出るぞ!」
ニコライは歓喜に打ち震え、砦より出陣する。
目の前にぶら下がった特上のエサ、ベルナールを見ても全軍を出撃させるのではなく、砦に最低限の守備兵を残したのは、彼に残った数少ない理性がさせたものであっただろう。
「かかれィ! ベルナールを討ち取った者には、恩賞は望むまま出すぞ!」
ニコライは昂ぶる感情のままに空手形を口にする。
――ウオオオオオオオオオオオオオ――
だがその効果は絶大なものだった。
ヴェイラーグ帝国は大国とは言っても、その殆どは収穫が望めぬ痩せた大地である。
よって自国のみで富むことは出来ず、他からの収奪によって生きていくしかない。
そんな国で地べたをはいずるように生きてきた彼らにとって、恩賞は人間らしい生活を勝ち取れる数少ない機会であった。
「来るぞ!」
迫りくる餓狼の群れ、その勢いを受け止めるべく立ちはだかったテイレシア軍の緊張が、圧に耐えかねて軋みを上げた直後。
「怯むな! ここを抜ければタリーニア砦は目の前であるぞ!」
ヴェイラーグの気勢を真っ向から跳ね返さんとばかりに、ベルナールが腰より抜き放ったオートクレールを天高く掲げ、陽光を乱反射させた。
「おお、ベルナール様が前線に!」
「将軍が直接に我らを指揮して下さる!」
「閣下が矢面に立たれているのに何をしている! 一番隊は閣下の護衛! それ以外は眼前の敵を叩き潰せ!」
崩壊するかと思われたテイレシアの士気は、忽然と前線に現れたベルナールによって急激な上昇を見せ、つい先ほどまで勢いを受け止めようとしたヴェイラーグ軍に立ち向かい、濁流のごとく押し寄せる。
そして両軍は激突した。
「うわあああ!」
「ぐああ!」
たちまち戦場は血に染まる。
名も知らぬ同僚が倒れ、だが手を差し出して助け出す余裕など誰にもなく、ただ大地に打ち捨てられていく。
その悲惨な状況から目を背けるように、戦うものはただ目の前の敵のみを見つめ、そして動かない者たちは増えていった。
そのうちに状況は少しずつ変化を見せ、それに気づいて声を上げたのはニコライであった。
「む……少し被害が増えてきたか」
大軍を以って包囲される心配がない隘路である。
それ故に安心して前線を見れていたニコライは、少しずつ自軍が浸食されていることに気づけていた。
「……練度が高い。なるほど、意図的に退く者と進む者を分け、退いた空間に進んだ我が兵を複数人で攻撃しているのか」
言うはたやすいが、テイレシア側で進んでいる者の犠牲も大きいはず。
そう考えたニコライは、すぐに次の手を打つ。
「孤立した敵を複数から攻撃せよ!」
だがニコライの思うように戦況は進まない。
相手の戦術に対してアドリブで指示を出しても、個人なら動くことが出来ても集団となればなかなか動けない。
ニコライはベルナールの戦術に対し、後手を踏んだのだ。
「ええい! 味方は何をしている!」
自分の思うように動かない戦況にニコライは冷静の仮面を脱ぎ捨て、本性である卑しく激昂しやすい性格を表に出してしまう。
それを目にした兵たちは動揺し、更に戦況は悪化していく。
そんな時、テイレシアの後方で戦闘によるものと思われる煙が上がり、それを見たニコライは下衆な笑みを満面に浮かべた。
「ようやく動いたか!」
別動隊による補給部隊の急襲。
だと言うのに眼前のテイレシア軍に動揺は見られず、それどころか益々勢いを増してニコライへと襲い掛かってくる。
「ど……どういうつもりだ奴らは! まさかタリーニア砦の物資を目当てに、このまま前に押し進むつもりか!」
ニコライの全身を冷や汗がつつむ。
だがニコライの予想は外れていた。
「よし! ヴェイラーグの別動隊は殲滅したぞエンツォ!」
「ハッハハ! それではこのまま将軍の所へ向かうかのエレーヌ!」
見つかりにくいように分散し、本隊と別行動を取って移動していた百人ほどのエンツォ隊と合流したエレーヌたちにより、最初に補給部隊を襲った少数のヴェイラーグの部隊は、逆に全滅の憂き目にあっていたのだ。
「しかし本当に後方のヴェイラーグ軍は放っておいていいのか! エンツォ!」
「ハッハハ! 万事抜かりなし! 今頃奴らは、財宝や食料に目が眩んで追撃の足を鈍らせておるわい! それに物資の中身はそれだけではないからのう!」
「ほう!」
迷路のようなタリーニア砦の周辺を、恐ろしいほどのスピードで進んでいくエレーヌとエンツォ。
そんな彼らが置き去りにしてきた物資の中身とは何だったのか。
「おお、なかなかに壮観だな」
「うむ……ところでなぜ脱いでいる〇ピュッセウス」
「そういう君こそ全裸ではないかペ〇クレス」
「やれやれ、二人とも品が無いな……と言うか、なぜ偽名……いや名前の一部をぼかすのだ?」
「それはだなペ〇セウス」
「どうも我らの名前はこちらではお見苦しい響きを持つらしく、くれぐれも直接口にしないようにヘルメース様から言われているのだ」
「ふむ、直接口にな……では仕方がない」
ある大きな木箱の中から現れたのは三人の神々しい男たち。
真の姿を英雄とする、神々の子孫たちであった。
「……あの者たちを呼んでいたのか。ま、まあ確かに力を貸してくれるよう、ベルナール将軍はゼウスに頼み込んでいたが」
「ハッハハ! 物資の財宝の一部は、報酬としてかの英雄たちに支払ったもの! それに手を出すような不埒な輩は、英雄たちの罰を受けても仕方がないのう!」
「ひどい詐欺だな」
エンツォの説明を聞いたエレーヌはその内容を一笑に付すと、馬の腹を蹴って戦場への速度を更に上げていった。
「ニコライ様! 伏兵です!」
「何だと⁉ 奴らは補給部隊の救援に行かず、我らのみを標的にしていると言うのか!」
後方のタリーニア砦からは、伏兵を知らせる狼煙が上がっていた。
それに気づかないほど焦っていたニコライは、護衛の兵が声を上げるのを聞いて焦燥感に包まれる。
「おい貴様」
「は、はい」
「予備兵力の一千を率いて迎撃に向かえ」
「し、しかしそれだけでは……」
「周辺は隘路に囲まれ、少数でも十分に防げる地形だ。行け」
言うと同時にニコライの手が腰の剣に伸びるのを見た護衛は、顔を真っ青にすると慌てて予備兵力の元へ駆け寄っていった。
(おのれおのれおのれ……なぜどいつもこいつも私の言うことに従わぬ……特にあのベルナールだ! 後方を襲われ、補給物資が無くなれば、帰国の可能性が閉ざされることにも考えがいかんのか! 痴呆した老いぼれめ!)
ニコライは内心で毒づくと、親指の爪をガリガリと噛み千切り始める。
その姿を護衛たちが不安げに見つめる中、前線では一人の白髪頭の男が、砦から新しく上がった狼煙を見つめていた。
「さて、どうやら勝敗は決まったようだな」
その男、ベルナールが何の気なしに呟いた時、後方から騎乗した一人の男が近寄ってくる。
「お下がりになりますか、ベルナール将軍」
「アランか、今回の出陣に関して君はいつもタイミングがいいな。私の様子を見張っている敵がいる時に限ってやってくる」
「は?」
アランはベルナールがかけてきた言葉を理解できずポカンとし、その顔を見たベルナールは苦笑した後に顔をしかめてみせた。
「気を抜くな。ここは戦場だぞアラン副団長」
「……は、ははッ! 申し訳ありません!」
「まあ良い、それに下がる必要も無いだろう。後方が急に編成した混生軍であることを考えると、少数ながら一番の精鋭を集めているここが一番安全だ」
「確かに……しかしなぜこのような編成に? 今回のような戦略を立てたのであれば、新兵たちは連れてこなくても良かったのでは」
「単なる目くらましだよ。少数で大軍を防ぐという、指揮官にとって耐えがたい誘惑を持つ戦術は、何も少数の方のみに採用の選択肢があるわけではないからな。少数の敵を、大軍に紛れ込ませたより少数の精鋭を以って防ぐ。なかなかに心が震える光景だ」
「それに加え、新兵は安全な場所で戦える……実戦は何よりの訓練、というわけですか」
アランの問いにベルナールは答えず、前方より飛んできた一本の矢を無言のままオートクレールで叩き落した。
「そろそろエンツォたちが相手方の大将に襲い掛かる頃か……さて」
ベルナールは呟くと、子供のように顔をほころばせた。
「今までに理不尽なまでの暴力というものを見たことがあるかね、ニコライ」
その頃エレーヌとエンツォは、迎撃に来た一千のヴェイラーグ軍を、十分の一足らずのエンツォ隊のみで鎧袖一触し、一瞬にして打ち破ったその勢いのままニコライの後方から襲い掛かっていた。
「後方より敵襲! 敵襲!」
「退くな馬鹿者……うわあああッ⁉」
後方より上がる悲鳴。
ニコライは理解が追い付かず、傍に一人残っていた護衛の顔を見た。
「ニコライ」
「は?」
「お前今日からニコライやれ」
「は? ニコライ様何を……」
ニコライは肩から下げていた、将軍の身分を示す肩掛けを護衛に預ける。
そしてあごを殴りつけて護衛を昏倒させると、怯えた表情のまま姿を消し、指揮官が逃げ出して残されたヴェイラーグ軍は、全面敗走することとなる。
こうして難攻不落と呼ばれたタリーニア砦は、短い間に何度もその主人を変えるという不名誉を甘んじて受ける羽目になったのであった。