第289話 指揮官の衰え!
タリーニア砦へ向かうテイレシア軍。
だが敵陣に向かう途中とは言え、敵が来ないわけではない。
「アラン副団長、補給部隊より連絡が」
「なんだ」
「敵来襲、救援を乞うとのことです」
「分かった、では手筈通りに動け」
「はっ」
敵襲の報告を告げた兵士の背中にまるで緊張感を感じなかったアランは、誰にも見られないようにこっそりと溜息をついた。
少数の部隊により、補給部隊を襲うと見せかけては撤退するヴェイラーグ。
その応対に追われたテイレシアの行軍は遅々として進まず、隊長など士官は繰り返される敵襲に慣れてしまい、来襲のたびに走らされる下級兵士たちは、徒労から来る苛立ちを見せ始めていた。
「……このままではいかんな」
アランは増援に向かう部隊の士気が低いことを見届けると、馬首を返してベルナールの元へ向かう。
しかし軍の弛みきった現状の報告、という危機感にあふれたアランの報告を、ベルナールはまるで他人事のような顔で聞いていた。
「……以上が今の現場の状態です、将軍」
「先が長い若者は、可能性を求めて移り気になるものだからな。私のような年寄りは、一箇所にしがみつくことしか出来ぬが」
「またそんなことを……それよりどう対応されますか。これではそのうち敵の奇襲に遭った時、即応が出来かねます」
「ではどうするかね。大軍を運用するために今回の遠征より副団長に昇進し、運用の一任を担うことになったテイレシア騎士団アラン副団長」
ベルナールの指示を仰ぎに来たアランは、逆に質問される立場となってしまい、焦燥感と反発心にさいなまれる。
だが口をついて出た言葉は、騎士の見本と揶揄される実に彼らしいものだった。
「……気は進みませぬが、現場指揮官の誰かを罰して訓戒とするがよろしいかと。もちろん私がその役目には立候補いたします」
「ふむ」
ベルナールは短く答えると、フォルセール騎士団の頃より長い付き合いであるアランの顔を見つめた。
「それには及ばぬよ、アラン副団長」
「はっ……」
「君の性格は知っているから忠告しておくが、君のやり方は予防にはなるだろうが、治療になるとは限らん」
「申し訳ありません」
「謝罪をするにも及ばん。つまり治療をするなら徹底的に、ということだ。そしてそれをするにはまだ時期尚早ということも、君に言っておこう」
「承知いたしました」
アランは承諾の返事をすると、再び後方へと戻っていく。
それを見送った後、ややしてからベルナールは口を拡げて呆けた表情になったのだった。
その二日後。
タリーニア砦に駐留するヴェイラーグ帝国軍を率いるニコライは、今日も執務室で幾度となく偵察の報告を聞いていた。
「ほう、ベルナールは今回も動かずか」
「さようでございますニコライ様」
「下士官たちや兵卒どもの動きは?」
「手慣れてきたようで、段々と我が軍の襲撃への対応速度は上がっております」
「ふむ」
報告を聞いたニコライは腕を組み、あごに手を当てる。
それを見計らったように偵察兵は追加の報告を行った。
「ですが、救援に向かう足は鈍ってきているようで」
「分かった、下がって良い」
「今一つ」
「なんだ」
「指揮官のベルナール、少々気が抜けた表情をすることが多くなったようです」
「ふむ、信じがたい話だが心に留めておこう」
重要に見えるその報告を聞いたニコライは、素っ気ない返事をして偵察を下がらせると、窓辺に立って外の景色を凝視した。
(……信じがたい話だが、信じても良い噂はヴェイラーグにも流れている)
その噂とは、老齢に至ったベルナールが衰え、体調を崩しているというもの。
(確かにここ数年は出仕を控えることが多くなったと報告にあるし、十年ほど前の天魔大戦においても、すでに全盛期の面影は失われていたとの報告もあった)
ニコライの目が鋭く光る。
(ベルナールとて人間……もし報告が本当ならば、今回の出陣における不可解な点もすべて合点がいく)
だが鋭く光った目が照らし出したものは、ニコライにとって甘い誘惑だった。
(だがシルヴェールがそんな老いさらばえた病人を、遠征軍の司令官に据えるとは思えぬ。ここは落ち着いてもう一度状況を整理するのだ、ニコライ)
思い直してそう判断を下すも、一度心にしたたり落ち、染みわたった毒は、そう簡単にぬぐい取れるものでは無い。
容易に手に入る勝利、かのベルナールを討ち取った名将の誉れ。
そして何より。
(次期皇帝の座に一気に近づける好機……慎重に事を運ばねばな)
勝利というまばゆい光が隠した向こうにある、貪欲な奈落の闇。
垂涎の餌が目の前にぶら下がったニコライは、自分でも気づかないうちに、知らず知らずのうちに、底知れずの闇をたたえる奈落の淵へと吸い寄せられていった。
次の日。
テイレシアへの対応策を献じ、ニコライの信を得た貴族の若者セルジュコフは、朝から執務室に招集を受けていた。
「敵の補給部隊を挟撃……でございますか?」
そこでニコライより指示を受けたセルジュコフは、今まで頑なに動こうとしなかったニコライより出陣の許可が出たことに、怪訝な表情となる。
「うむ、やってくれるかセルジュコフ」
しかしニコライの様子は平常と変わらず、普段よりはやや声が上ずらっているようにも感じられたが、それはこの指揮官には時々あることだったので、セルジュコフは無視することと決めた。
「喜んで。しかし気になることが」
「なんだ、申せ」
「では僭越ながら」
セルジュコフは地図の端を指し示し、説明を始める。
ベルナールの行く手に、スレイプニルの曲輪と呼ばれる丘陵地帯が広がっていること。
伏兵を置くには持って来いの場所だけあって、テイレシアが頻繁に偵察兵を送り込んでいること。
さらには頻繁に襲われる補給部隊の護衛として、エレーヌらしき指揮官がついていることなどを報告した。
「エレーヌの件は、私の所には報告が上がってきておらぬようだが?」
「申し訳ありませぬ。何せ噂に留まる程度の話ですし、その……敵将とはいえ、女に関する情報でしたので、補給部隊を襲った兵たちの願望による情報とも受け取れましたので」
「まったく仕方がない奴らだ。この砦周辺の住民では満足できぬと見える」
ニコライは苦笑すると、ツボに挿し込んだ幾つかの巻物の中から、タリーニア砦の周辺地図を取り出して卓状に広げた。
「見ての通り、この砦の周辺は狭く入り組んだ地形、隘路となっており、大軍の運用はほぼ不可能と言ってよい」
「まさしく」
「そしてオーディンの怨念と呼ばれるガスによって、細く長く伸びた隊列はすぐに分断される恐れがある」
地図に描かれた数か所の黒点をニコライが指で指し示すと、セルジュコフは重々しくうなづいて同意を表す。
「分断された所を狙う、と?」
「奴らが不用意に近づいてくるなら、そうする」
「敵将は我が国にも名声轟くベルナール……その名将が不用意に進軍してくるなど考えたくありません。増してやこの砦や周辺の地域は、奴らがずっと管理してきた地でございますし」
だがすぐにセルジュコフは願望のていをした反論を口にすると、地図を見るふりをしながらニコライの機嫌を横目で伺う。
「だが分断されざるを得ない状況に追い込まれてしまえば、話は別だ」
視線の先にあるニコライの機嫌はすこぶる良く、悪だくみをしている顔そのものであり、それを見たセルジュコフは安心してニコライの説明を聞く。
「この地点はガスの噴出が激しく、伏兵を置くには持って来いの地形だ」
「それ故に真っ先に警戒されるのでは」
「だからこそ、そなたに何度も補給部隊を襲撃させた」
ニコライはニタリと笑うと、偵察の報告してきた内容の大筋をセルジュコフにも聞かせる。
「なるほど、軍を率いる指揮官と、現場の兵卒をお切り離しになられましたか」
「頭がいくら指示を出そうと、身体の方が言うことを聞かなければ無駄なこと」
「我らのような貴族をやっかむ平民どもの構図ですな」
「我らの優雅な生活のみを見て、どんな苦労をしているかを見ようとしない愚図ども。だから貴様らは平民のままなのだと言いたくなってくる……おっと」
ニコライは口の端を吊り上げ、自嘲する。
「話が逸れたな、この私としたことが愚痴などで時間を潰してしまうとは。つまり君にはまた補給部隊を襲って欲しいのだ。ただし今度は時間差をつけ、左右からの挟撃でな」
「しかし隘路とは言え、補給部隊にはそれなりに護衛がついておりますし、打ち破るとなるとこちらもかなりの人数を割く必要があるのでは。本隊からの援軍もありましょうし」
「それよ」
ニコライはタリーニア砦を指さし、テイレシアが進軍してくる方向へと動かす。
「補給部隊を襲う前に私自ら出陣し、隘路で少数を以って主力のテイレシア軍の注意を引き、受け止める。しかる後にそなたに挟撃を仕掛けてもらいたい」
「なるほど」
「奴らは大軍の利点をまったく生かせず、補給部隊は焼き払われ、全滅はせぬにしても、来る冬を恐れて遠からず撤退することになろう。フェストリアに出した使者がうまくやっていれば、挟撃も見込めような」
「しかし補給部隊にエレーヌがいるとなれば、少々厄介なことになるかと。奴の武名はこれまでに何度も聞いたことが」
「奴は猪武者と聞いている。襲われれば考えなしに最初に襲撃してきた方に反撃し、深追いすることしか出来まいよ」
「承知しました」
二人はその後もいくつかの会話を交わし、ニコライが立案した最終的な作戦を各将たちに伝えるべくセルジュコフは執務室を出る。
「ここがお前の墓場だ、ベルナールよ。お前の時代の後は、この私が継いでやる」
一人になったニコライはそう言うと、一本のワインをあけてグラスに注いだ。